たまさかです
福岡から五島福江まで飛行機で移動しました。
飛行機はプロペラ機で、霧のためにちょっと揺れました。
夜に嵐のような風が吹くなど、その時は少しも知りませんでした。
福江から奈留島までフェリーで渡りました。
子供の頃から船旅に慣れている私にとって、揺れも少なく楽ちんな航海でしたが、旋網船は大しけのために休漁しているとのことでした。
本当に大時化なの⁈
姉と不思議に思っていましたが、夜中になると強風になり波は4メートルの高さになりました。
当初は、五島2日目は福江島にわたる予定でしたが、波次第でその日の予定を決めることにしました。
帰省2日目、午前中は産土神社の「奈留神社」へ。
御祭神は木花開耶姫です。
30数年ぶりのお参りとなりました。
神社は建て直され鉄筋コンクリートの社になっていました。
境内にあった土俵も無くなっていましたが、幼い頃遊んだ樹々は少し大きくなってそのままそこにありました。
お参りすると神様からメッセージをいただきました。
これから「意識を向ける場所」や、産土神と繋がり活動していくことなどたくさんのメッセージをいただきました。
お参りの後、神社からの景色を眺めました。
奈留神社は海に向かって建っています。
姉に聞いて初めて知ったのですが、対岸に父が奈留島へ来て初めて拠点とした場所がありました。
私は現在兄が受け継いでいる場所で生まれ育ち、最初の場所を知りませんでした。
神社の真向かいと言っても良く、父は毎日神社をみながら、神様のご加護をいただきながら仕事に励んでいたのだろうと思いました。
その夜、母が奈留島に引っ越して来た日のことを話してくれました。
父、母、幼い姉の三人で福江島から奈留島へ引っ越して来たのは、70年近く前のこと。
今では40分弱で行ける福江島ですが、初めて奈留島へきた日は、嵐で2時間半もかかったとのこと。
幼い姉が
「ぽんぽんの痛か。ぽんぽんの痛か。」
と訴えるたびに、父は姉を抱っこして甲板に出たそうです。
戻ってくると
「この子は船酔いしとるようだ。」
と言って、ずっと抱いていたそうです。
その後台風に見舞われ、家も作業場も造船所のドックも全て流されてしまったとか。
けれど福江島に引き上げてから、もう一度決心して奈留島へ戻って来たそうです。
それから数年後、私が生まれる数年前に現在の場所へ引っ越したのです。
奈留神という土地です。
奈留島の表玄関と言うべき場所で、造船所もたいそう繁盛しました。
県内外からお客さんが来ていました。
元旦以外は毎日休むことなく仕事していました。
とても忙しかったので、私は二歳頃から、よく福江島の祖母の家に預けられていました。
その後は、母がたくさんのご先祖さまの話を聞かせてくれました。
そこへ上の兄から電話がありました。
兄は引っ越しの時2歳だったそうですが、その時の様子を覚えていました。
若くして亡くなった母の弟が伝馬船(てんません)の絽を漕いでいたこと、その姿を見上げて幼いながらもわくわくしながら海の上を移動してきたこと。
そんなことを話していたら、突然、私に叔父が憑依しました。
「やあぼ、覚えとったとか!
嬉しかねぇ。本当に嬉しかねぇ。」
その後もしばらく昔の五島弁で話しました。
兄は66歳ですから、64年前の出来事です。
おじが亡くなってから50年以上経っています。
途中で母が生きていた時の苦労話を語り出すと、叔父本人は苦労ではなく、頑張ることが生きる支えだったと話しました。
人の想いというものを改めて感じました。
故人の想いを周りの人間が、あれこれと想像して
「きっと、こんな想いだっただろう。」
と話しますが、それがぴったり当たっていることはそんなにはありません。
たとえ家族であっても、本当の気持ちを察することは難しいのです。
同じ言葉だとしてもニュアンスが違うのです。
だから思います。
人様の心の中をあれこれと想像して語ったり、興味を持つことは極端に言えば無駄なこと。
いつでもどこでも自分の想いしかない。
それで良いのだと思います。
無理に理解しようとしなくていいのです。
人様のことより、自分のことを感じることが大事です。
しばらく叔父のことを話していると、母が過去の思い込みで話し出しました。
叔父は、すぐさま
「もうやめろ。その話は今日でおしまいだ。」
と厳しい口調で、母を静止しました。
思い出話は楽しいことを話す方が故人も喜んでくれるようです。
叔父と繋がり驚きましたが、この後、もっと驚くことがありました。
次で書きますね。
魂栄