「ずっとお城で暮らしてる」という映画がwowowで放送されました。

これは同名小説の映画版なのですが、wowowでの放送が日本初公開という事で、ほとんどの方がまだご覧になっていない作品だと思います。

そこで、今回は一応この映画のレビューではあるものの、この映画について詳しく書くよりも「小説と映画の違い」や、「映画における現実と妄想の描き方」について書きたいと思います。

映画を観ていない事を前提に書きますが、もしこの作品をいずれ観たいと思っている方にはある程度ネタバレになってしまう部分もあると思われますので、ご注意ください。

 

まず先に、この作品の感想をザックリと書かせてください。

以下はwowowの番組紹介ページに掲載されているあらすじです。

 

地方にある大きな屋敷。18歳のメリキャットは、6年前、ヒ素を盛って両親などの家族を殺した姉コンスタンスをそれでも愛し、彼女や、事件以来、車いすに乗るようになった伯父ジュリアンと暮らす。

だが同じ村の住民たちからは忌み嫌われており、メリキャットは魔法を信じることで現実逃避をしがちだった。

ある日、姉妹のいとこチャールズが会いに来て、しばらく屋敷に滞在することに。コンスタンスは彼と親しくなっていくが……。

 

この内容、完全にミステリー作品を期待しますよね。

以前レビューを書いた「マローボーン家の掟」の設定にとても似ていますが、あの作品はまさに期待通りの仕掛けと真相が用意されたミステリー映画でした。

この映画も、きっと最後に驚くべき真相と、観客を騙す大仕掛けが明かされる・・・!

・・・しかし、映画はその期待を大きく裏切ります。

ラストには本当に唖然とさせられました。

これだけ?これで終わり?

じゃあ結局、どういう話だったんだ!?

 

前述の通り、この映画はまだ日本では観た方が少なく、感想もほとんどありません。

そこで、原作小説の感想を読んでみる事にしました。

ここから分かったのは、そもそもこの作品は明確な真相が明らかになる事を主軸としたミステリーではなく、むしろ読者に真相を曖昧なままにし、不安の状態に置き去りにする事で恐怖を与えるタイプの作品だという事です。


 

小説と映画で大きく異なる点がありました。

小説では終始、メリキャットという少女の視点で描かれているという事です。

まるでファンタジー小説の様に美しくメルヘンチックに描かれる毎日。

しかし、次第にそこから浮かび上がるおぞましい現実と彼女の狂気(の気配)に、読者は恐怖を感じていく、というスタイルのようなのです。

 

これはこれですごく面白そうじゃないですか。

でも、残念ながら映画ではそこがまったく伝わらなかったです。

映画というものは小説と違い、どうしても客観的な見せ方になってしまいます。

はっきり言って、映画版では彼女は最初からただの狂人にしか見えません。

狂人が、最後まで淡々と普通に狂っているだけ。

確かに小説を忠実に映像化してはいるようですが、それだけでは原作のやろうとしていた事が表現できないのです。

 

現実と妄想を描いた映画は、過去にたくさんあります。

例えば、胸糞映画の金字塔「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、冷たく残酷に描かれる現実と、カラフルで音楽に溢れた妄想で、はっきりとその違いを表しています。

小説では人物の心情を細かく描く事が可能なので、そういった違いを書き分ける事が容易ですが、映画では映像に何かしらのヒントが必要なのです。

ミステリーとして、あえてその境目を曖昧にしておきたい。

そういう場合も、「この映画には現実と妄想が混じっています」という事が分かる描写を事前に見せておかないと、フェアではありません。

「ジョーカー」という映画は、現実と妄想の境目をあえて曖昧にする事で多くの観客を困惑させましたが、ちゃんと中盤でそれを決定的に印象付けるシーンがありました。

あのシーン以降、これは妄想?現実?と常に不安にさせられる事になったわけです。

そこを最後まで曖昧にしたままならホラーになるし、「実はここは妄想だった、あるいは妄想の様なシーンが実は現実だった」と真相を明かせばミステリー(あるはコメディー)になるのです。


 

「ずっとお城で暮らしてる」の映画版では、上記の2つのどちらの演出もやっていません。

原作にはそんなシーンが無いからでしょう。

でも、映画ではそこをやっておかないと、そもそもすべてが映画内の現実だと思うしかないのです。

狂っている人間は最初から最後まで、ただ狂っている。

過去の事件の真相も意外性ゼロ、見たままの通り。

不自然に感じる人物の振る舞いも、まあそういう映画なんだろう。

そんな風に、映画だけ観ても終始のっぺりした、何の起伏もないお話に見えてしまうのです。

 

この映画は、最初は幸福と魔法に満ちた楽しい生活を、ディズニー作品の様な過剰な演出で描いておくべきだったと思います。

小説同様、主人公のメリキャットから見たカラフルな世界を描き、それがこの映画の基本スタイルだと思わせる必要がありました。

そこに、時折「そうではない、客観的な冷たい現実の風景」を混ぜる事で、不穏なムードを徐々に忍ばせていくようにすれば、原作同様の感覚を映像化出来たのではないかと思います。

 

「ヘレディタリー」「ミッドサマー」のアリ・アスター監督の作品は、逆に「冷たい現実」から「苦しみの無い非現実」へと向かいます。

だから、いつも前半が一番恐ろしく、後半はむしろ牧歌的ですらあります。

あまりにも逃避的だと思うかもしれませんが、世界のあらゆる場所に存在する宗教というものは、現実の苦しみを緩和するために用意された幻想であるわけで、実は非常に普遍的な概念だと言えます。

しかし、完全に「あちら側」に行ってしまう事に対して、やはり恐怖を感じるのも正直な感覚だと思います。

「ずっとお城で暮らしてる」の原作は、未読ながらもきっとそういう妄想の甘美さと恐ろしさを同時に描いていたと思われます。

小説で書かれている事柄をそのまま描写し、同じセリフを役者に言わせても、映画ではその感覚は伝わりません。

映画はそれ自体が創作物なのですから、その世界の中における「現実」と「妄想」の存在をはっきり見せておくことが必要なのです。

その境目を見せられなかった事が、この映画の大きな失敗だと感じました。

 

あるいは、この映画の描き方をそのまま活かすなら、ラストで映画オリジナルのオチを作ってしまっても良かったと思います。

原作のやろうとした事は完全に踏みにじられますが、原作なんか踏みにじった方が良い、という成功例はたくさんありますからね。