最初の子どもを死産した日は七月三十日。

33年前のこと。


日にち薬と言われるが、本当にその通りで、毎日思い出すような心持ちではなくなってきた。


一つには電子書籍として30年経った時に世に送り出せたことが大きかったかもしれない。

あの出版で気持ちの区切りがついたように思う。


それでも

「どんな女の子だったのかな」

「妹(娘の冬花)と違って大人しい女の子だったんじゃないかな」

「三人いたらもっと賑やかで楽しかったんじゃないかな」

なんて思いを馳せることも。


けれど、締め付けられるような胸の痛みは伴わなくなってきたのだ。



昨日。

カフェでその電子書籍を読み返すと。


やはり涙が溢れそうになった。

しかし、少し距離を置いて、客観的に読むことができたのだった。


よく闘ってきたな、と自分を褒めてあげたいと思った。


今より医療事故に対して、多くの壁があった33年前。

今は電子カルテとなり、システムによって記入履歴が表示されたり、記入者の名前や時刻が明示されたりしているケースが多く、手書きのカルテより改ざんは難しくなったようだ。


手書きのカルテならば、改ざんしてもその履歴は一切残らず、「やったもん勝ち」であったのだ。

(私の場合は改ざんはなかったが)


大きな病院では、医療事故を認め、謝罪するケースなども見られるようになったが、33年前にはそんなケースは皆無だったように記憶している。



忘れることはなく

忘れてはいけない

忘れるはずもない



「最初のお子さんだから、見られない方が」

33年前、亡くなった娘の姿は、私はおろか誰一人として見ることがなかった。


今は「グリーフケア」(死別の悲しみを抱える遺族をサポートすること)が確立されてきて、死産した場合、亡くなったお子さんと一緒に写真を撮ったりなど出来るようになっているそうだ。


私の娘は闇から闇に葬られ、まるで存在そのものを否定されてしまったようだ。


しかし。

戸籍上、長女となっている娘の冬花にその存在を感じるのだ。


まるで、二人分生きているようなバイタリティ。

フラメンコの踊り手、漫画家と二足の草鞋を履きながら、挫折することなく進んでいく様は、何かの力が働いていなければ到底無理のような気がしてる。


生きてこの世に存在することが出来なかった姉の無念さが、娘冬花に宿っていると私は思っているのだ。



後、十日で娘の命日がくる。