ウズベキスタンの仲間たち

 

2000年末に赴任したウズベキスタン。旧ソ連の名残が色濃い国ではプロトコル(外交儀礼)が徹底している。外資系ホテルで催された歓迎会では配属先となった対外経済関係省の大臣が挨拶、ついで担当部長ハサノフ氏を紹介された。見るからに神経質そうな人物で実際、部下の前で職員を叱咤することで威厳を保つタイプは以前の日本社会と同じだ。それでもカウンターパートとしてマレーシアでの研修に同行した時には国を背負う誇りを示す威厳さにむしろ感服させられた。後日談だが氏はその後、政治犯として数年留置された。何か思想的な影響を与えてしまったのか危惧はしていたが後に改めて再開した際には何事もなかったような穏やかさで接してくれた。

日常では省の職員を対象に技術移転の名目で講義を任された。言わば大学の講師というところ、特に土曜日に行われるオープン講義には百人規模が集まる。過去に日本がソ連のバルチック艦隊を破り、広島・長崎に原爆を落とされながらも戦後復興を短期間に遂げたくだりを話す時には彼らが抱いている興味津々さが伝わってくる。

帰国してからも職員との交流は続き、短期留学の制度を使って頻繁に訪日してくるたびに彼らと会食を共にする機会は多かった。なかには実業家として自立した職員から投資に誘われ食用油事業で僅かではあるがリターン分を送金してくれた律義さには期待していなかった自分を恥じた。

自宅は2階建てで中庭と離れ部屋にはサウナとプールが備わっていた。ロシア語とピアノの教師が週一で訪れてくるがどちらの習い事も大成はしなかった。それでも覚えたてのピアノ練習曲を関係者に披露する機会はあったが、まともに褒めてくれたとは思っていない。

ある日帰宅したら玄関扉の様子が変、運転手が慌てて開けるのを制する。どうやら空き巣が入ったらしい。いや、出くわしたら危険だ。しばし落ち着いたところでどうやら被害にあったのはプレゼン機器、トレーナー、それにリモコン数個程度。なんでリモコンと思ったが翌日、泥棒市場で回収できたのには納得。このままでは気味が悪いので引っ越しを考えていたらオーナーから誘われた誕生会で盛り上がりそのまま居続ける羽目になった。

中庭の一部を畑に改良して家庭菜園を試みた。日本からサタカノタネを持参し、まずメロンを栽培、収穫してからの食べごろに迷って中途半端な味でした。毎朝、新鮮な牛乳売りが家の近くを練り歩く。容器を持って買いに走るのは子供のころの日本を思い出す。名産でもあるサクランボの木がいたるところに植えられ、自宅の道路沿いに実った一部の個所は取りつくされてしまう。通りすがりの人が摘まんでいくらしい。「他人のものは自分のもの」ここは共産主義国でした。山形産にも負けない味を誇る余ったサクランボを数時間煮込んでジャムを作ろうとしたが鍋ごと焦がしてしまった。砂糖を加えなければ当たり前のことでした、失敗。

9.11の同時多発テロが発生し米国はアフガニスタンのタリバンに報復を始めたが、無人攻撃機を発射する空港を隣国ウズベキスタンが提供した。これに対してタリバンが首都タシケントを攻撃の標的にする情報が流れ、日本の商社駐在員などは即座に避難し始めた。大使館とJICAは避難の準備は整えたものの最後まで踏みとどまったことで皮肉にも現地の信頼が深まった。この時の陣頭指揮を執ったのがのちに北朝鮮拉致問題担当大臣を務める中山恭子大使であった。

駐在中は楽しみも多かった。町の中心部にあるナボイ劇場では夜な夜なバレエとオペラが上演される。この劇場は第二次大戦後、ソ連に抑留された日本人捕虜が建てたもので1966年に大地震に見舞われた際にもほとんど被害を受けなかった由緒ある建物でもある。数百円の入場料を払えばモスクワのバリショイには及ばないものの人気のプリマドンナに声援を送ったものだ。終幕のアンコールを終えて花束を贈呈する役割を一度はと狙っていたが持ち前の気の弱さで実現はしなかった。オペラと違ってバレエは言葉の壁がないので「白鳥の湖」「ノートルダムのせむし男」「ドン・キホーテ」などの名演目は繰り返し見に行った。加えて観客席前に陣取るオーケストラの生演奏は舞台を盛り上げてくれる。

韓国人が経営するナイトクラブは豪華だ。20世紀初めに朝鮮半島からかの地に移り住んだ人たちは20万人ともいわれる。店に入ると30名を超えるロシア美人が客を出迎える。その夜のホステスを選ぶ数分間がまさに男の至福の時間だ。「英語を話す人?」条件絞りは自由だろうが人権侵害に当たるのは勘弁して欲しい。また、大使を務めたことがある韓国人が経営するゴルフ場は本格的なコースで日本人にはありがたい。キャディはロシア系女性がほとんどで会話の勉強にもなる。5ドルを追加すれば指名できるとあって、さすがに商売上手な国民性だ。任期が終わってお別れする外国人との別れを惜しんで涙を流すキャディの心の中は金づるを失う悲しみなのか、はたまた・・・

千客万来、コソボで知り合った文教大学で教鞭をとっている中村教授のゼミ生徒3名が研修生で送られてきた。JICA事務所で引き受けてもらった経緯もあり終了時には通信簿と称して評価したコメントには辛口が目立った。開発援助の世界は厳しい、敢えて彼女たちはその後国際NGOで活躍するほどになった。

大学運動部で一緒だった二人が日本から訪ねてきた。シルクロードの世界遺産都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチを案内した。「青のモスク」はいつ行っても背景の青空に映える。脂っぽいマトン料理が重なるので帰国するころには和食が恋しくなるのは皆同じ。二人とも民間会社の管理職なのでJETRO事務所で営業を試みた。旧ソ連社会では保険の概念は乏しいと聞くのでその導入を提案したものの二人の反応は芳しくなかった。そもそも休暇で来ていた御仁たちだからね。