国連ミッションは命がけ

 

最初から波乱含みで始まった。

正月明けの出発予定で搭乗したスイス航空がいざ離陸する寸前で機体故障のアナウンスがありそのまま成田空港に降ろされた。幸いにも代わりのルフトハンザ航空に乗り換えて経由地のフランクフルトへ、さらにマケドニア(現在の北マケドニア)の首都スコピエそして専用バスでプリシュティナへ到着。用意されていた高層ホテルは電気も水も出なかった。セルビアによる空爆でインフラ施設が破壊されていたのだ。

外務省から依頼があって今回のミッションに参加することにしたのだが、先の湾岸戦争で日本政府は多額の拠出金を負担したにも関わらず国際的な評価は芳しくなかった。そこでこの紛争の戦後処理への人道支援の一環として国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の活動を通して国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)への専門家派遣を決めた。

翌日のオリエンテーションでは地雷地帯での注意事項の説明が続く。講義するのは米軍の制服を纏った軍人だ。いやでも「ここは戦場なんだ」の緊張感が生まれる。

ホテルではペットボトル1本で体を拭く方法を同僚に教えてもらったりはしていたが、外務省職員の計らいでアルバニア人の自宅に間借りさせてもらうことにした。コソボでは民族紛争が深刻で多数を占めるアルバニア人とセルビア人との争いが今でも絶えない。夜中に銃声が鳴り響きベッドの中で身構えることもあったが、翌朝、結婚式のお祝いと聞いた時には怒りも通り過ぎていた。

毎日でも会議の案内が届く。さすがに日本の会議と違って1時間を超えることはない。議長は出席者が発言し終わったのを見計らって次回の予定を伝える。英語に限った会議だが流ちょうなネイティブは逆にゆっくり話すよう諭されることもある。ありがたかった。

UNHCRの緒方貞子弁務官がコソボを視察しに来た。80歳になっても矍鑠として周辺国を巡回したと聞いて改めて頭が下がった。その夜、夕食会を催していただいた。

救われた話題もあった。当時3歳のベシアナちゃんが戦火で全身に大火傷を負い手術が必要だったのを関係者からの寄付金を集めて日本へ送り数回の手術で回復できたことだ。あるメディアでは「二十歳になったコソボ美人」と紹介されている。

当時の仕事ぶりを田舎暮らしの母に手紙で書いたら「そんな苦労をさせるために大学まで行かせたつもりはない」と返事がきたのには、親心を今でも理解していなかったとしきりに反省した。そう言えば「息子に海外旅行に連れて行ってもらって現地で通訳してもらう」のが夢だと頻りに両親が言っていたのを思い出す。親不孝をしたままです。