穂高岳CC@まとめ(2) | 栃木県宇都宮市で攀じるパパクライマー

栃木県宇都宮市で攀じるパパクライマー

人の親になっても頂きを目指し、家族と共に攀じり続けるパパクライマーの記録



(2)主観的なまとめ

今回のミスを受けて、諸先輩方のアドバイスを少なからず受けたのですが、末端は必ず結べという意見や、アルパインは不確実性が高いのだから登攀方法を山に合わせる努力をもっと真摯にしなければならないといった意見等をもらいました。しかし、基本的にアルパイン山行中のミスは、その当事者しか事実を知らないのだから、正確な意見を言うことができないという一貫した論理の中に、今回のミスも含まれていました。つまりは初心者に戻って一から出直せとかいう根性論的な世界ではなく、自己責任の世界にいるんだから、自分で考え以後気をつけろよということです。


わたしは今回のミスを受けて、メンタル面では特段変わりませんでした。流れの中で起きたことであり、いつ死んでもおかしくないことをやっている自覚はそもそもあるので、他人から見れば生きているのが偶然の現状を踏まえても、まあそういうことも起こりうるし、そういう流れだったんだなと思っただけでした。逆に今回のミスは、今回起きなくてもわたしという人間が登り続けていればいずれ起きたのですから、この程度の代償で経験できたことは幸いでしかないと思っています。やはりわたしの頭上にはラッキースターが輝いていたわけです。


さて、話しを細部に絞ります。わたしは反省の意味も込めて、当分は、懸垂の際に末端は常に結ぶという縛りの中でアルパイン活動をしていきますが、懸垂の際に末端は常に結ぶべきかと聞かれたら、文登研が結べと言っているんだから、そう後輩には教えるけれども、事実わたしが山に入ってアルパインをやっている時に、必ず結ぶかといえば、必ず結ぶとは決めてはいません。


というのも、アルパインでは、例えば沢の下降の際に5m下りるためだけの懸垂を時にはする。5m下りた先が平地なら間違いなく末端は結ばない(中には結ぶ人もいるかもしれないけど)。つまり末端を結ぶかどうかは末端を結ぶ必要があるかどうか見極める必要があるとわたしは思っていて、末端を結ぶことについて、すっぽ抜け防止以外の意味をもたせていない場合(例えば、手を離したり気絶したりしてもバックアップを取っているので止まるような)、すっぽ抜けて滑落する可能性がないなら、やはり結ぶ必要はないと思う。


で、そうなるとその見極めが重要になってくる。結局先の例にもあげた沢の話しでも、下降地点を平地と判断し末端を結ぶ必要があるかないかの見極めは、クライマーの次第だろう。下降地点を自分にとって安全と見るか見ないかはクライマーによるのだから、支点の強固性の判断、固定にすべきか流動にすべきかの判断がクライマーに委ねられているのと同様に扱うしかない。それは冒頭に書いた先輩の「山に合わせて技術を駆使する」にいきつく。わたしは末端を結ぶかどうかもその領域だと思っています。


じつは今回のミスは末端を結ばなかったから起こったとは考えてなくて、フォローをちょっと下ろすためだけに懸垂システムを用いた是非と、もうひとつは人間はミスをするという話しにいきついてしまうなと考えてる。


今回フォローをワンポイント下ろすために、懸垂を利用してしまったのは、それは壁にペツル(わたしの判断では強固性が十分にたもたれていると判断できた)を見つけてしまったからで、それとボディビレイを比較し、懸垂のほうがより安全であると考えてしまったから。ワンポイントのため(2m程度)に懸垂をするのは今回が初めてで、普通なら怖いというメンバーがいてもボディビレイで下ろしてしまっているのですが、今回はフォローが妻ということで、なぜか最善策だと思ってしまった懸垂を駆使してしまった。現にボディビレイを行っていれば、事故は起きなかったのだから、その判断がそもそものミスなのでした(妻をボディビレイで下ろしたあとに自分はクライムダウンすればすむだけのことですから)。普段やらないことをやるから、色々とズレが生じてミスにつながるわけです。


兎にも角にも、わたしは懸垂下降をすることにして、その際に末端を結ばなかった。理由は簡単、すぐ下に立てる平地が下にあるのですっぽ抜ける可能性がないとわたし自身が判断したからです(バックアップは取っています)。


だから結局、ミスした原因は今から書くことでしかない。それは単純にわたしが上記のような判断から懸垂下降の末端を結ばないという選択をしたにもかかわらず、平地に下りたあとに、懸垂の利便性の恩恵を得ようと、その平地でシステムを解かずその先にまた下降を始めてしまったことです。そしてわたしは懸垂下降するときには基本末端を結んでいるので、末端は結んでいるものと誤認し(というかど忘れし)、また懸垂といっても、垂壁のような場所ではなく、Ⅰ~Ⅱ級の岩場を手探りで下りているような状態だったので、逆に下りるのに夢中になるあまり、そろそろ末端であるという点に気付けなかった。


もとを言えば懸垂下降のシステムを作成した時点で、下降到達点をワンポイントではなく、25m先に設定できていれば、末端を結ぶ結果となり事故は起きなかったという考え方もできる。しかし、現場ではそう思わなかった。強固性に問題なしと判断したペツル利用(1支点)の懸垂だ。いくら強固性問題なしと判断した支点とはいえ、1支点で25m懸垂したもんだろうか。わたしはそれはないと現場では判断したのだ。つまりは簡単なワンポイントの下降ならボディビレイがあるべき姿だけど、強固性を確認できた支点があるけど1つだから、ワンポイント下りるのに使わせてもらおうって理屈が頭で働いた。そこには支点1つで25m懸垂をそもそもやるという考えはない。そして25m懸垂する選択肢がなく、すぐそこの平地に下りるときに、末端はやはり結ばないかな。


であるなら、事故の理由は、わたしの登攀活動中、思考中の、組み立ててきたものの失念というほかなくなる。わたしが自分のやっていること(どの技術をどのような理由に基づき駆使しいてるか)をしっかり理解した上で、自分の置かれている状況を把握し、さらには前後の流れも意識化の中に取り込み、それを常に頭の中で説明できるような状態でなくては、また同じ事故を繰り返すかもしれない。


結局は、わたし自身がクライマーとしての判断力を磨き、経験値を底上げて、判断するに際しては、その軸を増加させる。こういったことを積み上げていくしかない気がする。そしてフォローが妻でも普段と違うことはしない。こういうことしか思い当たらない。


このミスを受けても、いまのわたしが同じ状況に再度おかれたなら、フォローをボディビレイで下ろし、わたしはクライムダウンする、それですませる。別に今後なにかが変わるわけじゃない。そういう場所や場面で起きたミスだから、結果的にわたしは助かっているし、無傷ではないけど、命や身体の機能を失っていないわけだ。そういう意味では、自分のいる場所の危険度は今回もそこそこ把握できていたし、生きているのも結局は偶然ではないよな(幼いながらもリスク判断した結果の賜物)と思うのでした。まああと数m落ちたてたら死んでたけどね・・・。


最後に、末端を結ばない結ばないと連呼していますが、わたしだって懸垂下降を用いるときの98%くらいは末端結んでいます。ただ、必要ないと判断して結ばないこともあると言いたいだけです。危険だけど面倒だから末端を結ばないという選択をすることはないです。少しでも危険なら末端は結ぶべきです。


兎にも角にも、アルパインは手軽にやれるフリーとは違い、不確実性が高いのは間違いなく、誰が見ても危険な場所ではちゃんと対処するので逆に危険じゃない(勉強をしっかりやっていれば)。本当のリスクは人によって判断が分かれるような場面に隠されているのだ。その判断力を磨いていくことが命を長らえる秘訣である。自分が見落としているリスクは常にあり、その見えないなにかに意識を向ける習慣をつけなければ。


そして、その判断力を磨くのは、本ちゃん中の登攀時であってはならない。本ちゃんは下界から準備してきたものだけで勝負する。つまりは登攀中に小手先の考えに従ってはならない。本ちゃん中に披露されるべき判断力の源はすべて下界で培ったものでなければならない。


下界で能力鍛錬や山でのあれやこれを考え、それを近場で試してみて不具合がないか確かめる。その繰り返しで上々の自分を作り上げて本ちゃんに挑む、そのようなルーティンにいなければならない。


しかし逆にこういう事故を起こしたことによって、支点の強固性の確かめがおざなりになっていないか、多様性、均等性、流動か固定の判断は間違ってないか、支点構築の際の全方位からのリスクチェック、ギアの整備や管理にいたるまで、下界でやれることの多さを再確認させられました。いまとなっては“まさか”は“まさか”ではなく、あれもやっておくべき、これもやっておくべきというのが次から次へと浮かんできます。自己鍛錬とリスクの管理に上限はないのだから、結局はすべてが自分のやる気次第。生きて帰ってこその山登りですから、今後はより一層の精進で岩と向き合っていこうと思います。


と、だぁーと書きましががまとまりなくなってしまった。でもこれにて今回の件は終わりにします。ご心配おかけして申し訳ありません。(おわり)