後編 『崖の上のポニョ』@7月並びに8月のフロントランナー。 | 栃木県宇都宮市で攀じるパパクライマー

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*本作にネタバレという概念があるのなら、一応ネタバレてるような気がするので、気にする人は注意だ。




前編にも書いたけど、アニメーションは感性で受け止めるものだから、言葉での批評は無意味だと思うのだけども、一応評判が出来と比例しているわけでもなさそうなので、書いてみようと思う。さて本作の主題は「死後の世界と生前の世界に違いはないということ」とそれに伴う「タブーの解禁」にあります。死語の世界と書けば恐ろしいけど、簡単にいえば、人の世が恐れてきた未知の世界というだけの話で、人は常々ここではない世界のことを語るのをよしとせず、タブー化して恐ろしがるように仕向けてきました。でもそのタブーや世界の区分けというものは虚構であって、そういった類を恐れる時代ではもはやなくなったというそんな話。


ポニョはポニョッとしているけれど、赤裸々に言えば半魚人だからモンスターの一種なんですね。怪物なわけです。本作はスジが二層になっているのだけど、まず一つのスジは、怪物に狙われる母子のお話し。メスの怪物が助けてくれた少年に一目惚れをして狙う。人の世とあちらの世界が交わるのはタブーなので、怪物の親はかたくなに止めようとします。少年の親も違和感を敏感に感じ取り、息子を守ろうと頑張ります。結果的に嵐と共にやってくる怪物に息子を手中にされ、母親は怪物の父親の罠で誘い出されてあの世逝きになってしまいます。


ほぼ完全に海に沈んだ世界で、船で母親を捜しにでた怪物と少年は、海にのまれて亡くなった大勢の街の住人の魂が山の上のホテルに向かうところに遭遇します。海にのまれて大量死しているのに大漁旗を掲げているノーテンキぶりを見るに、あちらの世界はあちらの世界で何も変わらない。もしかしたらあちらの世界のほうが楽しそうな具合です。ただ少年の母親の知人の赤ん坊を連れた家族に少年が遭遇した時は違います。あちらの世界がこちらの世界と何も変わらないとはいえ、それは自我が生まれて個が立ってからの話であって、赤ん坊は純真無垢で生存本能以外には何も持ち合わせていません。あちらの世界の住人として赤ん坊は相応しくないのです。生きたいと駄々をこねる赤ん坊に、怪物は命を吹き込みます。頬が赤らみ体温が戻る赤ん坊。監督は死は肉体の死であって恐れるべきものではないと語りながらも、未来の象徴である赤ん坊は殺さない。本作が子供のための映画だと語る監督の面目躍如です。あっそうそう、少年と怪物が多くの魂たちと別れるとき、少年に好意を抱いている女の子(の魂)が私も乗せてとせがむシーンがあります。亡くなった魂が好いていた男性を目の前にして、生への執着が蘇らせるシーンです。あそこは恐い。鳥肌もの。


結局、母親の車のところに少年が辿り着いた頃には、母親は共に避難をしていた老人ホームの面々と共にあの世逝っていますが、ここでも肉体の死がけして悲惨なことではないという極楽浄土的な描き方をなされています。世界を助けるために息子の犠牲が必要だと同じく娘を人間として手放す怪物ママから話を持ちかけられて、真剣に話をきく少年の母親の佇まいは涙を誘います。本作って基本的に母親の話だよなと思うんだよね。新しい世界を決断する二人の母親の話。まあそれは余談ですが、この話が臨界突破するのは、怪物に一目惚れされた少年がその思いに応える異種交配が描かれることです。これは明らかにタブーの解禁なんですが、多くの犠牲が生まれても結果的にタブーだからと元の世界に戻る振り出しのような発想はもういらないという監督の高らかな宣言になります。


肉体は死んでも魂は死なない。しがらみから解放されたこちらの世界より楽しそうな死後の世界。海から生まれた世界は海に戻るという惑星規模的な輪廻感は、宮崎監督ならではだと思いますが、本作から察するに、宮崎監督は既存の価値観に飽きたというか、エコなんてうたってもしようがないという境地に達したんだと思う。兎にも角にも、ポニョが波と共に宗介を追っかけ、邪魔しようとする母親の手をすり抜けて宗介にギューっと抱きついたシーンでは、おいらは「食われとるがな」と思ったとか思わなかったとか。(これは余談過ぎる)


さて、ここまでのスジを下地とした上で表層に重ね塗りしたのが、下地を活かした「自分でこれと決めたなら、タブーや周囲のことなんて気にせず魂に正直に突き進め!」という、生けとし生けるものに対する応援賛歌。肉体が死んだって魂は死なないって背中押してくれてんのだから、これほどの応援はないよね。これは誰でも分かるので語る必要はない主題だと思うけれど、宗介の揺るがなさとポニョの一途さは本当に気持ちがいい。本作の印象はこの爽快感で基本的に支配されている。上で「食われとるがな」と思ったシーンも、その後瞬時にポニョが「宗介のとこキター(2chか)」と言って、妹人面魚sたちのライスシャワーがあって、おいらが愛してやまないシャガールの名画「盃をかかげる二重肖像」のシーン(下の画像)ですよ。祝福感で充ち満ちている本シーンは本作の白眉だろう。まあでもシャガールの画と違って、本作だと男性が肩車しているのだよね。これも新しい基準の誕生でしょう。普通女性が男性を肩車するもんだからね。宮崎さん面白すぎる。最高です。





とこんな具合で、本作は二層構造になっており、それはあちらの世界とこちらの世界のボーダレス化を描く上で必要な構造だったと思うんだけども、そんなことは気にせずに、前編で書いたように本作はただ感性で受け止めればいいんだと思う。おいらは本作ではリアルに奇跡的な体験をした。初めて本作を観た時、おいらがあまりの感動に拍手しようとエンドロールが流れ終わるのを待ちかまえていたらば(おいらは素晴らしい映画を観ると一般ロードショー時でも拍手してしまう人)、なんと背後からおいらより先に二人も拍手をし出したのだ!おいらは年間200本以上観ている映画馬鹿だが、複数の人間が試写や映画祭でもないのに拍手するのを聴くのは初めてのことだった。呆気にとられておいらは拍手するのを忘れてしまった。2回目友人に付き合って観に行った際、おいらは今度もあまりの感動に包まれて、素直に拍手し始めたのだけど、そしたらどうです、おいらの拍手に追随して、背後から拍手する人が一人、二人、三人。なんと四人も追随して拍手してくれたのだ!ぼかあこれまで傑作を何度となく拍手で讃えてきたけれど、おいらの拍手に追随して他の拍手が生まれたことなんて一度だってなかった。まさにミラクル。これ本作の「タブーの解禁」「自分の魂に正直に」というテーマが観客に即効浸透した瞬間だったんじゃないだろうか。いまだないことが起こるというのはそれだけで本当に凄いことだよ。おいらは本作から本当に多くのワクワクと幸せを頂けました。多くの人が同じように自由になれたらいいのに。大・傑・作ですッ!! 10.09.9


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1月のフロントランナー。 『ジェシー・ジェームスの暗殺』

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2月のフロントランナー。 『ファーストフード・ネイション』

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3月のフロントランナー。 『4ヶ月、3週と2日』

http://ameblo.jp/tama-xx/day-20080805.html

4月のフロントランナー。 『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』

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5月のフロントランナー。 『パリ、恋人たちの2日間』

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6月のフロントランナー。 『ぐるりのこと。』

http://ameblo.jp/tama-xx/day-20080904.html

7月並びに8月のフロントランナー。 『崖の上のポニョ』(前編)

http://ameblo.jp/tama-xx/day-20080905.html