ここ三日間、誰ともあってない。

でも今は寂しくない。

自分の思考に対して適度な距離を保って、それを客観的に眺めることができてるから、寂しさは1秒で消える。

寂しさだけじゃない。

他にも色々な、悪い気分を誘発させる因子は、思考を止めることで滅菌できる。

今、自宅で一人、このMacと向き合ってる。

とても静かです。


元カノのMのことを日記に書くのは自分の中では最早ド定番。

ちょっと前、共通の友人から電話があった。

要件はその友人が企画しようとしてる中学の同窓会について。

でも本当の要件はたぶんそれとは別のところにあったと思う。電話の最後に、それまでの会話の流れからして不自然な形でMの話をふってきた。

自分がMと別れた日、たぶん、その別れの電話をした直後、Mは友人に電話をかけてたらしい。

内容は自分は今どうしてるのか知りたい、的なことらしい。

Mは自分のことを最大限尊敬してるし今でもかっこいいと言ってたらしい。

友人がそのあとに何か大事なことを言いかけたけど、自分はその話を遮って続きを聞くことを拒否した。

絶対それだけはなんとしても阻止した。

今の時点ではまだ落ち着いてないから知りたくなかった。2年かそれ以上の時間が経過して、Mに関するあらゆることを思い出さずに暮らす穏やかな一日がやってきたくらいのタイミングで、初めて聞きたかった。

その内容を聞くことによって復縁の希望を持つことも絶縁を確信することもしたくなかった。

自分はどこまでも楽観主義的な部分があるから、またいつかやり直せるんじゃないかとか思ってたりする。たぶん、あの別れ際に一番したくなかったのは絶縁を確信すること。

でも今のこの、思考と適度な距離を保ててる自分であれば、Mが完全に生活から消え去っても、苦しみはたいした大きさにはならないと思う。

続きを聞いてしまうと期待と絶望のどっちかに振れてこの平安が失われる気がした。

寂しくなった時はその感情に目を向けて、体の感覚、その瞬間自分を夢中にさせてる思考を静観する。

精神の安らぎが戻ってきたら、また今の瞬間に、あるいは呼吸に、意識を向けてその無音状態を守る。

技術さえ身につければ痛みは消える。


自分でも思うけど今日の日記はかなりキモい。たぶんこのキモさの源は文体にあると思う。常にサングラスをしてるロン毛な人が話してるみたいな口調。


今日も一日中、自我と向き合うって決めてるので、瞑想したり読書したりして過ごします。