先日、サルトルの思想的な本を読んだ。
実存主義という立場をとっていることは高校の倫理で既に学んでいたが、書いてある内容がブッダの思想と類似しすぎていた。

中学3年の夏、「自分」というものが何を指しているのかわからなくなり、それまでなんとなく抱いていた自己イメージが自分であると思えなくなり本当に冗談抜きで発狂しそうになったことがある(笑)。
四六時中そのことを考え、動悸がクラブハウスみたいなことになっていた。
そのせいで本当に眠れない夜がたぶん2週間くらいあった。
そのとき、これがたぶん自分の人生では最初で最後だと思うが、睡眠薬をもらうために心療内科に勇気を出して踏み込んでみた。
そのときの自分は終始冷静であることを意識し、精神異常者だと思われないよう努めた。
名前を呼ばれて診察室に入ると担当医の先生が静かに座っていて、症状を控えめに伝えた。
伝え終わるとすぐ「思春期特有のホルモンバランスの乱れが思考回路に影響を与えているのかと思われます」といわれ、当時の自分は「思春期」という浅い言葉で、自分の考えている深淵な事柄を片付けられたことに腹が立った。きわめつけ、睡眠薬貰えず、、(笑)

でも今思い返すと半分かそれ以上はその診察が当たってたと思う。
あのとき感じていた「自分」を巡る違和感に関しては真っ当な感性が働いた結果だと思うが、それを何かとても重大なことのように感じ、心臓をバクバクさせていたのは厨ニ病的な発想があったからだろう。

1番嬉しいのはあれから6年経った今、その違和感についてある程度、言葉のレベルと感覚のレベルの両方で理解しているという自覚だ。
あのとき発狂しそうになっていた自分は「自分」が何かわからなかったからで、それは「思考(エゴ。自我)」の次元での「自分」と、「全体(五感や意識、無意識すべてを統括したもの)」の次元での「自分」を混同していたからだろう。

思考の次元での「自分」は、例えばこれこれという名前で、こうゆう性格をしていて、身長は何センチで出身はどこそこで、、という具合に簡単に説明でき、それらはすべて概念、極論を言うとすべて妄想だ。
全体としての「自分」はそれらの妄想を飼っている主体、思考よりも深い次元での清涼な意識みたいなもので、そもそも思考のような概念的な存在ではないため言葉による説明が極めて難しい。

この難しさ故に、それを頑張って比喩などを使って表現しようとする「宗教」は一般に怪しい(中には本当に意味のわからないものもあると思う、、笑笑)と思われがちだ。

様々な本に書いてあるがキリスト教も仏教もヒンズー教もイスラム教もその他いろいろなメジャーな宗教は根本的に同じことを違う言葉や表現方法で言っている。
たとえば、思考の次元での「自分」のことを仏教ではわかりやすく「自我」と一言で表現し、他の宗教では「アートマン」(これ以上は忘れました、、笑)精神世界・哲学の分野では「アイデンティティ」や「エゴ」など、、
全体の次元での「自分」のことを「超自我」や「ブラフマン」、「真我」「神」「超越的自我」など、、

そしてこれらを言葉レベルで理解するのは意外と簡単で、関連書籍をたくさん読めば点と点が結ばれてきて理解につながる。
感覚レベルで理解するためにはそれなりに長い時間「瞑想」特に「ヴィパッサナー瞑想」をする必要があると思う。

サルトルの本の中に「対自存在と即自存在の識別」というテーマがあった。これは仏教では「法と概念の識別」といわれていて、ヴィパッサナー瞑想をすることによって脳が鍛えられ、神経回路に独特の癖を付ける。
この癖を強力に付ければ付けるほど、普段日常生活を過ごしていて目の前で起こる事象を冷静に判断し、無意識下で起こる思考や感情を完全に統括することができるようになる。

たとえば嫌いな人が目の前にいても嫌悪感という「不快」な感情を限りなくゼロにできるし、何かに失敗しても動じずに状況を受け入れ、ただその瞬間瞬間もっとも良いとされる選択を行うことができる。
これができるようになれば人の人生に降りかかる苦しみのうち、たぶん90パーセント以上はカットされると思う。
カットされた後に残るのは、天気の良い日に太陽の下でのんびり過ごす小学校の夏休みのようなストレスのない澄みきった意識、すなわち「清涼な意識」。
これに早くなりたい。