気づいたことがある。

昨日、男のくせにお洒落な店でパンケーキを注文した。

お皿に盛られたパンケーキを一人一人よそって食べる方式やったから自分はいつものように一番小さいものを自ら選んで自分の皿にとる。

クリームも均等な分量より少なめで自分の皿によそう。

自分はそれを非利己主義やと思って、めっちゃ小さいことやけど、こういった自己犠牲は慈悲の実践であると確信してる。

つまり心の平安を得るためにめちゃくちゃ重要な要素やと思って行ってる。

でも非利己主義で何でもかんでも他人に譲る性格の人はほんまは人を愛してるんじゃなくてむしろその逆なんじゃないかと、思った。

相手を本当に心の底から愛することができへんからその償いとして非利己的な行動に出てる気がした。

たぶんそう。

幼少期からの教育か、それとも母のすることを模倣するのが正しいと潜在意識のレベルにおいて思ってるんか知らんけど、根本的に他人を愛することが義務やと思ってて、愛するべきやと思ってて、でも心の底の底からそれをすることができへんから表面的に、すなわち行為だけでも自己犠牲に走る、というカラクリ。

たぶん子供に構いすぎる母親は、これの顕著な例やと思う。

そして非利己主義な人間は他人だけじゃなくて自分自身も愛することができへん。

条件付けされた自分しか受け入れることが難しい、受け入れたくないと思ってる。

つまり利己的、自分中心主義で無慈悲な自分を受け入れたくない。

非利己的で他人を優先して慈悲深い自分が好き、そういう自分こそ自分自身やと思いたい。

こんな条件付けされた受容は本当の意味での愛ではない。

無条件に自分を、自分自身であるとして受け入れることができへんからその償いをしてるんやなきっと自分は。