コンスタンサ王女の誇り | 北米・ヨーロッパ・時々日本のほっこり生活、マッタリブログ

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とある言語学者とバイリンガル猫二匹、究極おっとり系アメリカ人夫の生活・仕事・異文化便り。

カスティーリャ王国(現スペインの地方名)の

王座を巡って

フランスから援助を受けていた異母兄

エンリケと争っていた ペドロ王 

フランスと敵対関係にあった

イングランド王にサポートを求め

当時のイングランド王の長男、

ブラック・プリンス の助力を得て

カスティーリャ王国の王の座を確保。

 

しかし、約束の戦資金を支払う事無く

(ブラック・プリンスはペドロ王に騙されたと解釈する説も)

異母兄に殺害され、

戦資金の担保とされていた

ペドロの次女と3女は

ブラック・プリンスに託されます。

(詳しくは、前記事にて)

 

Constance of castile (1354-1394)

 

スペインを離れたコンスタンサ

現フランスのブルーチーズで知られる

Roquefort ロックフォール という町で

ブラック・プリンスの弟、

ジョン・オブ・ゴーント と結婚(1371年)。

 

それから約1年半後

イングランド国内では

王女のみに許されていたとされる

フォーマルな儀式で祝福されながら

ブラック・プリンスにエスコートしてもらったコンスタンサ

中世において最も豪華な邸宅

ロンドンのサヴォイ宮殿 

華々しく入場を果たします

(現サヴォイ・ホテルはこの宮殿にちなんだ名)。

 

Savoy Palace London Pniterest by Anne O'Brien

 

 

 

 

この結婚を持って

ジョン・オブ・ゴーントとコンスタンサは

カスティーリャ王国の王と王女である 

王位継承権を申請するのです。

 

さて、この 宮殿での生活 

コンスタンサ王女にとって

どんなものだったのでしょう?

 

通常貴族や高貴な女性には

Lady-in-Waiting と言われる女官

もしくは侍女がつきますね。

 

コンスタンサ王女に付いたのは

あの、英文学の父と呼ばれる

チョーサーの奥さん

フィリッパ。

 

 

このフィリッパ、ブラック・プリンスや

ジョン・オブ・ゴーントの母が

彼女の故郷で旧知の仲にあった

とある騎士が戦地で倒れた後

宮中に引き取った彼の娘達の一人。

 

女王はこの子を宮中に呼び入れすぐ

自分の侍女のポジションを与えたのですから

思い入れが強い女の子だったのでしょう。

 

宮中の生活は様々な しきたりや儀式

そして複雑な人間関係 がある中

女官や侍女の役目は

おつきの方をお世話をし、見守る事。

対外関係を操る重要な役でもあり

長年女王の女官を務めていたフィリッパは

宮中でも尊敬を受け

更に様々な内情を熟知していて

ジョン・オブ・ゴーントの妻の女官役は

正に適役

 

しかし、このフィリッパ

故郷から一緒に連れてこられた妹の

後見人でもあり、その妹は

 

ジョン・オブ・ゴーントの

最初の妻の死に際で看病に当たり

妻の死後

ジョンの子供達の世話役、

教育係に任命され

ジョン・オブ・ゴーントの子供で後の国王

ヘンリー4世に

「 母 」 と呼ばれるに至った

 

キャサリン・スウィンフォード

 

Katherine de Roet / Swinford

 

そして彼女は、ジョン・オブ・ゴーントの

長年の恋慕の対象 でもありました。

 

歴史書の多くは

政権の移り変わりに焦点を置き

ジョン・オブ・ゴーントが

キャサリンと結婚した年しか

(コンスタンサが亡くなった後、約2年後)

明確には報告していませんが

(この件に関しては長くなりますので又いつか)

 

コンスタンサが入った宮殿内には

夫となった男の

後の国王となるヘンリー4世を含む

前夫人の3人の子供達と

夫の愛する夫人と噂される家庭教師 (Governess)

そして、その女性の実姉 

女官として待ち受けていたのです。

 

それでも誇り高きスペイン王女のコンスタンサ

健気にイングランドでの宮廷生活を追行し

無事ジョン・オブ・ゴーントの子供をもうけます。

 

一方コンスタンサには

ジョンとの関係を子孫作り以外

拒んでいたのかもと思わせる回想録もあり

一説によると

(宗教上の理由によるかも知れませんが)

下の方の洗浄を頑なに退けていたとか

(分かりにくいかなぁ。。)。

 

歴史的には、スペインの女王・王女を含む

情熱的なスペイン女性の描写が多い中

コンスタンサが夫ジョンを心底愛していた事を

実証する記述は少ない・見つからないのです。

 

実はこのコンスタンサ、彼女自身

父ペドロ王が生涯愛した愛妾

(ペドロは実際に結婚していると主張しますが)

マリーアの娘。

 

キャサリンの立場を熟知 

していたのかも知れません

(あくまでも憶測です)。

 

そして、自分の子供

カスティーリャ王国の王女の座を

保障できる女の子を

夫の愛人と同じく「キャサリン」と名付けます

(若しくは、そう名付ける事を承認)。

 

これが、キャサリン・オブ・ランカスター

(スペイン名: カタリナ・デ・ランカステル)、

カスティーリャ王国の王女となるキャサリンです。

 

そしてこの女性の名が、ヘンリー8世の最初の妻

キャサリン・オブ・アラゴンの名前の由来となるのですから

歴史というのは皮肉なもの。

 

Catherine of Aragon, c. 1496, portrait by Juan de Flandes. 

Fine Art Images/Heritage Images/Getty Images

キャサリン・オブ・アラゴン 幼少期

 

コンスタンサは40歳で

「女性の病」(とのみ記述。婦人科系に関する?)で

あちらの世へ旅立ち

 

その後、彼女の夫ジョン・オブ・ゴーントは

コンスタンサと自身との娘、キャサリンを

ペドロ1世を殺害したエンリケの孫に嫁がせ

カスティーリャ王国の王女の座 

保守するのです。

 

良いか悪いか別として

あの時代に王室に入るという事は

自分のみのエゴは追求せず

周りから憐憫を集める事に躍起になる事も無く

自国と嫁いで行った国の民の生存と繁栄の為に

一身を尽くす覚悟と使命感を持って

いらしたのかも知れません。

 

あの時代の農民の生活も大変だったらしいけれど

王室や貴族も凄いナ~。

今の時代に生まれて、本当に良かったと思う

エピソードでした。

 

それでは皆様、今日も笑顔で、

素敵な週末をお過ごしになられます様~ドキドキ