トップ10ヒットが人気のバロメーターとするならば、59年に入ってからもロックンロールの新たなヒットはありました。

しかし、その数はわずか三曲でした。

●タラハシー・ラッシー / フレディー・キャノン(59年6月 全米6位)
うねるベースにバスドラムの連打。
めちゃくちゃカッコいい曲です。
彼はこのサウンドから、
Freddie  "Boom Boom" Cannonと呼ばれました。


●タイガー / フェビアン
ロックローラーというよりはアイドルに近いですが、その中でもポスト・エルヴィスを意識したロックンロール寄りのアーティストでした。
(59年7月 全米3位)


★最後のロックンロールヒット
そして、歴史を後で振り返った時に、第一期ロックンロールムーブメントの、最後のヒットといえるのがこの曲でした。

エルヴィス!!

●ア・ビッグ・ハンク・オー・ラブ / エルヴィス・プレスリー(邦題:恋の大穴)
(59年8月 全米2週1位)

自ら一気に広めたロックンロールの、最後の曲も彼自身であることに運命めいたものを感じます。

この曲のシャウトは、ロックンロール排斥の時代に対する叫びのようです。

エルヴィスはこれ以降もヒット曲を多数出しますが、映画出演とその挿入歌を歌う活動が中心となって行き、もうこのようなシャウトは聴けなくなりました。
復活の日までは。


この曲は全米1位であり、決してエルヴィスや、ロックンロールの人気が下火になったのではありません。

しかし、この曲は実質的に第一期ロックンロール時代の最後のヒット曲となってしまいました。
(私は当時の空気は知りませんが、ペイオラ事件や、出来すぎとも言えるほどのロックンローラーの社会排除を通して「ロックンロールを歌うと碌な目にあわなあい」というような敬遠があったのではないかと推察しています)

62年にあの曲が登場するまでは。


★インストものの発展
歌もののロックンロールはエルヴィスを最後にチャートから消えてしまいましたが、インストものは、より人気を増して行きました。

●ハッピー・オルガン / デイブ・'ベイビー'・コルテス
(59年5月 全米1位)


●40マイルズ・オブ・バッド・ロード / デュアン・エディー(59年7月 全米9位)


●スリープ・ウォーク / サント&ジョニー
(59年9月 全米2週1位)


●レッド・リバー・ロック / ジョニー&ザ・ハリケーンズ
(59年9月 全米5位)


●ティーン・ビート /サンディー・ネルソン
(59年10月 全米4位)


このインストもののヒットは、ロックンロールから始まった「バンド」というスタイルが完全に定着したことを意味するのだと思います。

そしてこのバンドサウンドの流れは、後の「ベンチャーズ」や「サーフミュージック」、また「ビートルズ」を始めとするブリティッシュバンド勢の活躍、さらには日本における「GS」や「エレキ」ブームに繋がって行きます。


音楽は、人々の求める刺激とともに成長して行く。

決して途切れることなく。

そんなことを感じさせてくれます。


最後に、この59年にデビューし、翌60年に大ヒットとなったベンチャーズのセカンドシングルで締めくくります。

●ウォーク・ドント・ラン / ザ・ベンチャーズ (60年8月 全米2位)

chuma@WDRS
金曜日は、息子の直樹の再検査でした。

お陰様で転移は無く、各数値もほぼ正常になっていました。

最近、自閉症の薬を飲み始めたので、先生いわく副作用として眠いらしいのですが、今まで夜中の1時、2時まで寝なかった(それはそれで大変)のに、21時過ぎに寝たり、朝も暇があれば横になったりしていました。

副作用とは思うものの、癌のしんどさかも知れないと思うと気が気で無かったのですが、検査の結果大丈夫でしたので胸を撫で下ろした次第です。

ていうか、どっと疲れが出ました、、、

はぁ~、これでまずは一安心!!


その夜は、2/8のライブで使う音源を制作しました。

この音源、何なのかを言いたいのですが、当日まで取っておきます(笑)

なかなかの力作なので、ライブが終わればYouTubeにアップしようと思います♪



そして、昨日と今日は直樹が合宿(予定通り行けた)ので、夫婦で久しぶりに神戸のルミナリエに行きました。


こちら、最初の点灯直後です。
駐車場から歩いて来たら、たまたま点灯の瞬間の最前列に出てきました。

夕焼けも綺麗でした。
遠く離れた場所まで、ルミナリエを見に来た人たちで一杯です。

建物のイルミネーションも素敵です。

こちら教会です。(ていうか式場かな)

教会のツリー。もうそんな季節ですね。

神戸のお菓子屋さん「ケーニヒス・クローネ」のホテルです。


そして、北野で食事をして夜のルミナリエを見てきました。





ドームの中


ルミナリエは阪神淡路大震災の復興イベントとしてスタートして、今年で25回目の開催だそうです。

もう四半世紀なんですね。

ルミナリエを見ながら、追悼の意を捧げると共に、こうして生きているからこそ、こんなに美しいものを見れるんだという喜びをかみしめて来ました。

今ある日々を大切にしないといけませんね。

chuma@WDRS
バディ・ホリーの死をしっかり引き継いだアーティストがいます。

ボビー・ヴィーです。

バディ・ホリーのフォロワーは沢山いるけれど、ボビー・ヴィーに関しては完全に別格です。

なにしろ、バディ・ホリーが飛行機事故で来れなくなったステージを埋めるために、突如ステージに立ったのが、アマチュアだった当時15歳のボビー・ヴィーだからです。

ボビー・ヴィー自身のインタビューで当時の様子が語られています。


●ボビー・ヴィーのインタビューより

ほかの数多くのみんなと同じように、ホリーの歌を初めて聴いたときに、バディ・ホリー・ファンになった。そのとき以来、僕はずっとファンでいたし、これからもずっとファンでいるだろうと思う。

数年前、バディは僕の故郷の町であるノースダコタ州ファーゴでダンス・イベントに出演することになっていた。これは町中のみんなにとって大きなイベントになるはずだったが、僕にとってはそれ以上のことだった。僕は、本物のバディが動くところを見られるのを、不安とともに楽しみに待っていた。

バディが到着するはずだった日、悲劇が襲い、バディの命を奪った。リッチー・バレンスとビッグ・ボッパー、2人のすばらしい歌手たちも一緒だった。

この衝撃的なニュースは、ファーゴの町中に瞬く間に伝わった。地元のラジオ局は、ダンス・イベントに出演できる地元のタレントを求める呼びかけをした。

その1週間前、僕はボーカルと楽器で5人編成のバンドを組んだばかりだった。僕たちはバディのアプローチをモデルにしていて、バディのヒット曲を念頭に置いてリハーサルをしていた。

ラジオの呼びかけを聞いた僕たちは、出かけていって、「自分たちがやりたい」と申し出た。その時点ではまだバンドの名前も決まっていなかったので、その場で「ザ・シャドウズ (The Shadows)」という名を決めた。

ダンス・イベントに出演し、ありがたいことに熱烈に歓迎された。そのすぐ後に、僕は最初のレコードを作った。それは「スジー・ベイビー (Suzie Baby)」という曲で、とても幸運なことに、かなりのヒット曲となった。

●スージー・ベイビー(59年 全米77位)


バディ・ホリーの死は悲しいことだけれど、彼の死がなければボビー・ヴィーがデビューすることはなかったかも知れません。


その意味から、ボビー・ヴィーは完全にバディ・ホリーの意志を受け継いだアーティストだと思っています。

もしかしたら、バディ・ホリーが天国から彼に自分の死後を託したのではないか。

そんな風にさえ思えるのです。


その後、ボビー・ヴィーはポップシンガーとして数々のヒット曲を送り出します。

●テイク・グッド・ケア・オブ・マイ・ベイビー(邦題:さよならベイビー)
(61年 全米4週1位)


●モア・ザン・アイ・キャン・セイ
(61年 全米61位)
この曲はバディ・ホリーのバックバンドだった「ザ・クリケッツ」のメンバーによる作品です。
(クリケッツ=コオロギ、ビートルズ=カブトムシで、ビートルズは彼らを意識してバンド名をつけたと言われています)


●ザ・ナイト・ハズ・ア・サウザンド・アイズ(邦題:燃ゆる瞳)
(63年 全米3位)


ボビー・ヴィーの歌う曲は捨て曲ゼロと言っても良いほど、ヒットした曲から、そうでない曲まで名曲ぞろいです。

ヒット曲ではないけれど、僕が一番好きな曲はこちらです。

これもまた「バディ・ホリーが生きていたら、こんなポップな曲も歌っていたかも知れない」という夢を見せてくれます。


そして1962年、いよいよ夢の共演が果たされます。

「ザ・クリケッツ」とのコラボによる、ロックンロールアルバムが発売されたのでした。

ここに収録されている「サムデイ」。


この曲のオリジナルが誰であるのかは情報不足で分からないのですが、この曲を歌うボビー・ヴィーは、まるでバディ・ホリーの生き写しです。

しかし、完全にモノマネではなく、やはりボビー・ヴィーなのです。

バディ・ホリーのファンとしてこんな嬉しいことはありません。


さらに、1963年。
ボビー・ヴィーはバディ・ホリーのトリビュートアルバムを出します。

そのことに関するボビー・ヴィーのコメントです。

少し前から、僕はバディに捧げるトリビュート・アルバムを制作してほしいと求められていたけれど、それが正しいことなのか確信がもてなかった。

しかし、昨年中、そうしたアルバムを作って欲しいというリクエストをたくさんもらって、それも僕のファンやDJたちからだけでなく、まだまだたくさんいるバディの忠実なファンたちからもリクエストがあったんだ。

それがこのアルバムをつくる自信をもたせてくれた。
「スジー・ベイビー」からこのアルバムまで、たくさんレコードを作ってきたけど、バディ・ホリーのことや、彼が僕の歌い方やキャリアに与えた影響の大きさは、決して忘れたことはない。



話を壊すようですが、僕(chuma)にとってこのトリビュートアルバムは大きな意味はありません。

バディ・ホリーの曲をそのまま歌うのであれば、バディ・ホリーを聴けば良いからです。


その意味で、バディ・ホリーの曲を歌わないボビー・ヴィーこそ僕は大好きです。

バディ・ホリーが生きていたら見せてくれたであろう進化を、ボビー・ヴィーは見せてくれるからです。

バディ・ホリーが亡くなっても、彼の魂は死なない。

そう思わせてくれるのです。

chuma@WDRS