「資料下さい」は 龍蔵顕彰か?
世界の鳥居龍蔵と言えば
徳島出身、だから
その資料などは、
「あたりまえに」
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館にある?
実は、この「推理」は大きな勘違い!
世界的に活躍した鳥居龍蔵、
20くらい東京に出かけてから、
なくなるまでは、
徳島に住まいを持っていなかった、
徳島の生家は
大空襲で全滅・・・
1939年
ハーバード大学の
アジア研究機関である
(当時米国における、アジア研究の
最高機関だった)
ハーバード・エンキン研究所に赴任、
赴任先はその研究現場である
中国北京にある
米国領地内の
ハーバード大学の
北京にある姉妹校
ハーバード・エンキン大学の
学園内で、
住まいをハーバードから与えられ、
そこから、中国各地への
フイールド・ワーク研究に
出かけていた。
中国政権交替後、
米国の中国における学術運営が
できなくなり、従って
ハーバード研究所・姉妹校なども
運営停止、
ハーバードに招聘された龍蔵も
当然元のまま勤まらなくなり、
1950年代初頭帰国(東京)
1953年逝去するまでは
東京で暮らした。
ちなみに、東京にあった
その住まいも、空襲により全滅、
残ったのは、空襲で地下に打ち込まれた
書庫のみだった
・・・・・・
では、龍蔵資料はいずこ?
これは、龍蔵の学問手法・ポリシーにより、
彼が調査・研究した
海外・国内全ての箇所において
彼は、その地方で出土した物は、
その地の物であり、
その地の人々の物であることを
強く主張し、
これらをさらってゆき、
わが物にしたことは一度もない、
よって、今、日本全国各地で
彼の足跡が及ぶ箇所箇所(市町村)に
それらの実物記録が見られる、
つい最近、徳島県立博物館における
鳥居龍蔵の沖縄・南九州調査の企画展覧会は
正に、これらの地から
龍蔵資料を借り、展示したのだ、
同様、現地戦乱等で保管むり時
龍蔵採取資料は、
全てその仕事先だった東大にあり
後、一部は他の博物館にあり、
何もかも、全てが徳島の
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館にある、
とは、とんでもない勘違いだそうだ、
壮絶な調査研究の生涯を送った
徳島県・徳島市出身の龍蔵を
こよなく愛した徳島県が
龍蔵がなっくなった時点
徳島県民から集まった浄財で、
鳴門の景勝地である妙見山に
鳥居龍蔵記念館を建てた
これを2年前、徳島市文化の森にある
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館に
移転したのだ、
だから、この館は
資料の貯蔵庫などではなく、
あくまでも「発信地」である。
龍蔵顕彰の聖火を持ち、
今回企画展示のように、
全国各地の龍蔵ゆかりの地との
連携プレイにより、
これらの龍蔵資料を
一堂に公開・紹介しているのだ。
だから、龍蔵資料は
日本全国各地にあり、
世界各地にあるのだ。
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館は
龍蔵顕彰の先鋒であり、
旗手であり、
発信地であるのでは?
龍蔵を理解することで、
この勘違いは解けるであろう:
「その地で発見されたものは
その地の物で、
その地の人々の物だ」
龍蔵を顕彰・探究するに、
先ずは、
彼の学問調査研究における
この鉄則を
徹底的に理解しましょう、
「龍蔵顕彰するから、
資料を下さい・・・」などは
甘えかも?
現場主義を徹底する龍蔵に
興味を持つならば、
龍蔵のように、
自らの足で、
龍蔵のゆかりの地を訪ね、
それらの地にて、
必要な資料と
出会うことになるでしょう。
受身に資料乞いではなく、
ポジティブに、前向きに
自らの足で、探し求めましょう、
これこそが、
龍蔵の基本で、
龍蔵学の基本ではあるまいか?
この基本を実行できずにして、
龍蔵顕彰を語ることなかれ?
世界の鳥居龍蔵と言えば
徳島出身、だから
その資料などは、
「あたりまえに」
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館にある?
実は、この「推理」は大きな勘違い!
世界的に活躍した鳥居龍蔵、
20くらい東京に出かけてから、
なくなるまでは、
徳島に住まいを持っていなかった、
徳島の生家は
大空襲で全滅・・・
1939年
ハーバード大学の
アジア研究機関である
(当時米国における、アジア研究の
最高機関だった)
ハーバード・エンキン研究所に赴任、
赴任先はその研究現場である
中国北京にある
米国領地内の
ハーバード大学の
北京にある姉妹校
ハーバード・エンキン大学の
学園内で、
住まいをハーバードから与えられ、
そこから、中国各地への
フイールド・ワーク研究に
出かけていた。
中国政権交替後、
米国の中国における学術運営が
できなくなり、従って
ハーバード研究所・姉妹校なども
運営停止、
ハーバードに招聘された龍蔵も
当然元のまま勤まらなくなり、
1950年代初頭帰国(東京)
1953年逝去するまでは
東京で暮らした。
ちなみに、東京にあった
その住まいも、空襲により全滅、
残ったのは、空襲で地下に打ち込まれた
書庫のみだった
・・・・・・
では、龍蔵資料はいずこ?
これは、龍蔵の学問手法・ポリシーにより、
彼が調査・研究した
海外・国内全ての箇所において
彼は、その地方で出土した物は、
その地の物であり、
その地の人々の物であることを
強く主張し、
これらをさらってゆき、
わが物にしたことは一度もない、
よって、今、日本全国各地で
彼の足跡が及ぶ箇所箇所(市町村)に
それらの実物記録が見られる、
つい最近、徳島県立博物館における
鳥居龍蔵の沖縄・南九州調査の企画展覧会は
正に、これらの地から
龍蔵資料を借り、展示したのだ、
同様、現地戦乱等で保管むり時
龍蔵採取資料は、
全てその仕事先だった東大にあり
後、一部は他の博物館にあり、
何もかも、全てが徳島の
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館にある、
とは、とんでもない勘違いだそうだ、
壮絶な調査研究の生涯を送った
徳島県・徳島市出身の龍蔵を
こよなく愛した徳島県が
龍蔵がなっくなった時点
徳島県民から集まった浄財で、
鳴門の景勝地である妙見山に
鳥居龍蔵記念館を建てた
これを2年前、徳島市文化の森にある
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館に
移転したのだ、
だから、この館は
資料の貯蔵庫などではなく、
あくまでも「発信地」である。
龍蔵顕彰の聖火を持ち、
今回企画展示のように、
全国各地の龍蔵ゆかりの地との
連携プレイにより、
これらの龍蔵資料を
一堂に公開・紹介しているのだ。
だから、龍蔵資料は
日本全国各地にあり、
世界各地にあるのだ。
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館は
龍蔵顕彰の先鋒であり、
旗手であり、
発信地であるのでは?
龍蔵を理解することで、
この勘違いは解けるであろう:
「その地で発見されたものは
その地の物で、
その地の人々の物だ」
龍蔵を顕彰・探究するに、
先ずは、
彼の学問調査研究における
この鉄則を
徹底的に理解しましょう、
「龍蔵顕彰するから、
資料を下さい・・・」などは
甘えかも?
現場主義を徹底する龍蔵に
興味を持つならば、
龍蔵のように、
自らの足で、
龍蔵のゆかりの地を訪ね、
それらの地にて、
必要な資料と
出会うことになるでしょう。
受身に資料乞いではなく、
ポジティブに、前向きに
自らの足で、探し求めましょう、
これこそが、
龍蔵の基本で、
龍蔵学の基本ではあるまいか?
この基本を実行できずにして、
龍蔵顕彰を語ることなかれ?