頼るのは自我と実力


志賀直哉は

党派に所属する人、

イデオロギーなどをもつひとを、

「主人つき」、と表現した:


だから、白樺派に親しみをもつ

共産主義の、共産党である作家

小林多喜二 を最初好まなかったようだ、

「主人つき」でなく、「自己」「自我」に従う者を好むのだ。


しかし、小林多喜二が本当に白樺、

特に武者小路実篤を崇拝しているのを知り、

「主人つきでも打てればよい」といったようだ、

即ち、本人に実力あれば、許せる意味だ。


ここで申したかったのは、

小林氏のことではなく、

例として、

志賀直哉の価値観なのだ:


志賀直哉が、「主人つき」をきらう、

あくまでも、自己の意思中心に

行動する点において、

鳥居龍蔵と共通しているのでは?


もう一つの点は、

実力中心のものの考え方、

他力に頼るるのでなく、

頼るのは、あくまでも、

自分自身の実力であるべきだ、

というのだ。

この点も、鳥居龍蔵と共通だ。


龍蔵も、

利得計算抜きに、

媚びることなく、

マイウェイを貫いたのだ。


「世渡り上手」だったら、

もう一通りの、

裕福で楽な人生があったかも?


しかし、龍蔵の人生の旅路を見ると、

全て、これらは龍蔵の運命で、天命では?

とも、考えられるのだ。


素人無学の僕、

まだ何も深く探求などしていない、

無責任ながらの感想なのだ。