今日も仕事に行った。
今日は昼まで寝た。
納豆ご飯と、お味噌汁を食べて、出社。
いきなりmacOSのアップデートで、20分何もできなかったから、スマホで会社の週報と、課題の回答を書いていた。
その後、まずタスク管理で、トレロっていう無料のウェブアプリを登録して、タスクボード作って、やることリストを作った。
それから、プロジェクトのQAをまとめて、クライアントに(クライアントって言っても、うちの社長がクライアントなんだけどね)確認や質問することをエクセルにまとめて、送った。
社長は土日も関係なくすぐ返事が来るのに、今日は来なかった。
それから、クライアントサイドで画像をリサイズしてサーバーに送信するライブラリを選定して、いいのがあった。
今日の仕事はだいたいそんなところだ。
それから、1年近くも置きっぱなしの会社のゴミをまとめて捨て、会社を出た。
電車に乗って、たまたまリュックに入ってた「僕らの民主主義だんだぜ」を読んでいた。
詩のことが出てきて、面白かった。
何かが起こった時、人は信頼できる言葉が必要だ。
引用すっか。
—— 「神奈川大学評論」の「ジャスミン革命(中東革命)」の特集で、詩が三つ紹介されている。(中略)どれも「タハリール広場からの詩」と呼ぶべき作品で、革命の象徴ともなった広場での戦いを直接に歌っている。驚くのは、これらの詩が、「いずれもテレビで発表され、その画像がユーチューブで公開されたり、ブログに転載されたりしたことで、多数の視聴者を得」たことだ。
たぶん、世界中でそうであるように、アラブでも、詩は長い間果たしてきた社会的役割を、失いつつあった。しかし、動乱の中で、詩のことばが復活する。(中略)これらの詩が人々の心を掴んだのは、「社会のあらゆる面で腐敗や偽善が横行していたために、言葉への信頼が失われてエジプトで」「信頼に足る言葉が切に求められてい」たからだ(中略)。——(高橋源一郎「僕らの民主主義なんだぜ」p.31-32、2015年5月30日)
これは国家に限ったことではなく、個人にとっても同じだと思う。
自分の中で色んな動乱が起こっている時、誰の言葉も信用できない。
そんな時、いつも必要なのは、信頼に足る言葉であって、
誰かからの「大丈夫?」でも、
「頑張って」でもない。
「ダメだよ」でも「正しいよ」でもない。
「俺の若い頃なんてなぁ」でもなければ、
「いつか役に立つよ」でもない。
僕が欲しいのは、「僕も10年肉体労働をやってました」だったし、
「お前の苦しみは理解できないけど、お前が誰にも理解されないんだろうなっていう苦しみは理解できるよ」だったし、
「あなたが一人で耐えてること、私は知ってる」だったし、
「人間関係が疑心暗鬼になっちゃうのが辛くて鬱になっちゃった人はSMがいいんだよ。関係がステディだから」だったし、
「誰も知らない、本当は知らない」だったし、
「生きる意味があるんじゃなくて、生きてるから美味しかったりするだけ」だったし、
「努力は熱狂に勝てない」だったし、
「躁鬱は機械の機能みたいなもの」だったし、
「口角を上げて上を向くと、脳が楽しいと錯覚する」だったし、
「俺が信じるから、お前が信頼の足る人間になる、それはお前の問題じゃない」だったし、
「本当の優しさってオーロラみたいなもんで、現象なんだよね」だったし、
とにかく、僕が欲しかった言葉なんて、挙げればキリがないけど、
そう考えると、誰の言葉も信用できなくなってた時から、随分信頼の足る言葉に出会えたようだ。
いまだに時たま、「なんで生きてんだっけ?」ってなるけど、
今はそれに対して、自分の信頼の足る言葉を持っている。
そんな風に、僕は、言葉でできているし、言葉で生きていると思う。
言葉で世界はできてると思うし、だからといって、言葉ばっかりでは救えないし価値がなくなってしまう。
現象としての言葉を、厳密な意味で言葉として置く。
それ以上でも以下でもない、詩の表現に、僕は心を強く惹かれる。
詩ってなんだかわかってないけど。
でも、少なくとも自分を詩人だと思っている。
それはオシャレなことを言う人、みたいな詩人じゃないっすよ。
ツイッターでいいねが付くような詩じゃないっすよ。
信頼の足る言葉を吐きたいってことっすよ。
誰からも無視されてても、世界でたった一人、あなたのためだけの言葉を吐きたいってことっすよ。