黒澤明の「生きる」を観た。

以前観たときは

まだ自分が若く「おじいさんが主人公」の話だと思っていた。

ところが

調べてみたら、この当時主演の志村喬は48歳だったらしい。

今の私より格段に若い。

それが

不治の病で余命いくばくもないことを知ってしまう。

そのうろたえ方、狼狽のしかたが

ものすごく真に迫っている。

今よりも治療法が確立されてない時代の話だからなおさらだ。

「生きる」というタイトルから

人間愛に満ちたヒューマンドラマというイメージを

思い浮かべるのだが

今回、見直してみると

とてもクールでドライな視点をもった

人間観察ドラマのような印象を持った。

退廃的に思える部分もあった。

この映画を作った人は

主人公の味方でも敵でもなく

ひとりの人間が死に至るまでの

出来事をただ淡々と描いている。

まるで突き放したように問いを与えて

終わっている。

 

主人公ワタナベが

若いとよという女性につきまとう場面も

とよは

今の人の言葉でいえば

「うざい」「きもい」という態度で

接しているようにみえる。

同情はするけれど

あまり近い接点は待ちたくないという感じだ。

ストレートにバッサリと

思ったことをいうとよの言葉で

ワタナベは目が覚め

「ハッピーバースデー」の歌と共に

もう一度

生きなおす決意を固める。

あと少しの命だから

自暴自棄になる時間を経て

あと少しだから

今できることをしようという決意にかわる。

この映画

そこから

突然、ワタナベの葬式の場面がはじまるのだ。

ところが

その葬儀の弔問に来る人たちの会話から

ワタナベが

いかに最後の瞬間まで

「生きる」ための命を

燃やし続けていたか、

いかに

市民の声を汲み、人の支えになっていたかが

わかる仕組みになっている。

でも

弔問に来る人全員がワタナベの真意を

理解したわけではなく

ワタナベの尽力を軽いものとして扱ったり

ワタナベの手柄をまるで全部自分がしたかのように

とうとうと語るものもいたりする。

死を身近に感じたからこそこんな仕事ができたのかもしれないが

死を身近に感じたとしても

私は

何もできずに終わっていく気がする。

みられたくない日記を捨てるとかくらいはするかもしれないが。

・・とそんなふうに思うのは

まだ死を身近に感じてない証拠かもしれない。

 

今回、とよを演じた

「小田切みき」さんという女優さんは

どこかで見たことがあるような気がしていた。

小さいころ見た「けんちゃんチャコちゃん」というドラマの

チャコちゃんと似ているのだ。

気のせいだろうか。

年齢的にそんなはずはないのだが。

調べてみたら

小田切みきさんは

チャコちゃんを演じた四方晴美さんの

お母さんだということがわかった。

気のせいではなかったのだ。

それがわかっただけでも良かった。