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九州車中泊旅42日目-1_有馬キリシタン遺産記念館、原城跡

HOTEL AZ 長崎雲仙店で目覚め

枕が固めだったので、イマイチ安眠できなかった

キャラバンのほうが熟睡できるような気がする

ここまで人間、車中泊に慣れるものなのか

ビックリだ

 

朝食はホテルのAZcafe -Shidaka-でバイキング

焼きサバ、ウィンナー、焼き海苔をチョイス

朝食の定番ですね

バイキングといっても、お替りするわけでもないので、バイキングの意味なし

でも、奥さんは普段以上に食べていた気がする

 

8時15分発

 

1時間ほど車を走らせて

有馬キリシタン遺産記念館 9時15分着10時5分発

 

有馬キリシタン遺産記念館とは

2018年7月世界文化遺産に登録された『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』の構成資産である『原城跡』や、有馬のお殿様の居城である『日野江城跡』について、分かりやすくご案内する施設です。

この記念館に来て、初めて原城跡や日野江城跡について知ることができた

世界文化遺産だったのか ここに来て初めて知った

 

 

世界文化遺産登録決定

有馬キリシタン遺産記念館の入口に大きく出てた

 

記念館を見学

有馬晴信

有馬晴信(1567-1612年) 洗礼名ドン・プロタジョ

わずか4歳で家督を相続して有馬家の領主になった晴信。

佐賀の龍造寺氏との度重なる戦いで領地が次第に縮小していくなか、晴信は領土の回復には口之津港に来航する南蛮船との貿易による経済的・軍事的支援が必要と考えます。1579年に口之津港に降り立ったイエズス会の巡察師ヴァリニャーノより洗礼を受け、キリシタン大名となり領内での宣教を許可しました。

1587年(天正15年)の伴天連追放令の時には、追放された宣教師、セミナリヨやコレジョの神学生を領内に受け入れキリシタンを擁護します。

これ以降、有馬領はイエズス会の宣教の拠点となります。 また、天正遣欧少年使節帰国時には大村純忠・大友宗麟は 他界しており、唯一の生存者として、帰国後の4少年を援助しました。

 

満島ひかりが演じた天草四郎

SNSで話題になった動画が写真になってる

南島原市の魅力的な観光資源や特産品などを全国に発信するために制作されたブランディングムービーに出演されて話題になった

 

さて、2つある城跡が気になりますが、原城跡が近くなので、こちらに行ってみたいと思います

 

国史跡原城跡について

国史跡には1938年5月30日指定

原城は慶長4-9年(1509-1604)頃に、キリシタン大名の有馬晴信(1567-1612)によって築かれた城郭とされる。

宣教師の記録によると、有馬氏本城の日野江城が手狭で戦闘に不向きであったため、新たに巨大で堅固な原城が築城された。

元和2年(1616)、大和五条より入封した松倉重政が居城を島原へ移したため、原城と日野江城は廃城となった。

 

 

 

 

原城跡近くまで来たのですが、駐車場がどこかわからず、しばらく放浪してました

 

やっと見つけた

原城温泉 真砂 10時20分着

ここは宿泊施設ですが、この奥が原城跡大手口駐車場になってました

 

 

原城跡大手口駐車場

正面の建物が原城温泉 真砂

空は真っ青の良い天気

 

 

原城跡周辺案内図

奥さんは歩く気がなくて、車で待機しているから行ってらっしゃいとのこと

グーグルマップによると、海沿いに歩くと10分はかかる

この日は天気が良いので歩くと暑くなりそうだが頑張るつもり

 

 

 

海を見ながら城跡へ

散歩気分で歩いてます

 

世界遺産の立派な看板

城跡の入口にあった看板

右側の看板に世界文化遺産の説明があって地図が書かれている

構成遺産は12か所ある

 

ネットにほぼ同じものがあったので

地図で見る世界遺産 この地図はネットより

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産は地図で見ると範囲が広いです

そして、遺産関連の場所の数も多い

とても全部見て回る気にならない

 

 

長崎県新観光百選の地

 

長崎新観光百選とは

1979年に長崎観光連盟や新聞社などが協賛し、市民の意見を参考に長崎の魅力を未来につなげるために観光名所を100か所選出したのが長崎新観光百選です。

長崎県は九州の最西端に位置することから、三英傑の一人に数えられる織田信長が活躍をした安土桃山時代から南蛮貿易の拠点として栄えた歴史を持ちます。そのため長崎新観光百選には、日本とヨーロッパとの関わりが深いことが理解できる歴史的建造物として、武器を含めたヨーロッパの物資を流通させたグラバーが住んでいた「グラバー亭」や「オランダ坂」などが選出されています。

今回の九州車中泊旅では、グラバー亭やオランダ坂も巡る予定です

 

 

ホネミカ地蔵

島原·天草一揆の終結(1638)より 130年ほど後の明和3年(1766)に北有馬村願心寺の住職注誉上人と南有馬村の庄屋らが、原城跡に残されていた遺骨を敵味方の区別なく拾い集め供養した地蔵塔

 

島原·天草一揆について

寛永14-15年(1637-1638)の島原·天草一揆では、度重なる飢饉や領主の弾圧に堪えかね、2万を超える農民が蜂起し、最終的に廃城となっていた原城に籠城しました。一揆勢のほとんどがキリシタンでした。

一揆は約4ヶ月の長期戦となりましたが、兵糧攻めの末、寛永15年(1638)2月末の幕府軍の総攻撃により鎮圧されました。

一揆以降、ポルトガル船の来航禁止、宗門改帳の作成が実施されるなど、海禁(鎖国)政策やキリシタン禁制および領民の統制が強化されていきました。原城を主戦場としたこの戦いは、幕府の支配政策にも影響を与える大きな出来事でした。

 

 

原城本丸跡の石垣

原城跡では本丸にのみ石垣が確認され、ほかの曲輪は石垣を伴わない土造りとなっています。

原城は17世紀初頭に築かれた近世の城郭ですが、中世城郭の名残りがみられる点も大きな特徴です。

原城本丸の石垣は緩やかな勾配で、直線的に積み上げられています。石垣の目地を横方向に通そうとする意図がみられますが、石材が規格的ではないため、必ずしも徹底はしていません。石垣に積まれる大きな石材(築石)には、粗割石や自然石が用いられ、割り面や、自然石の比較的平坦な面が石垣の表面となるよう積まれています。こうした積み方は、近世初頭頃の城郭石垣の特徴をよく示しています。

 

 

破壊された石垣の跡

中央が破壊された石垣の一部か

 

原城跡の石垣は、島原·天草一揆の終結後、幕府軍により隅や上部を中心として徹底した破壊を受けました。原城ではいったん突き落とした築石を前方へ引きずり出し、再び石垣を突き崩すといった作業が繰り返されました。

幕府に抵抗した一揆勢の怨念を断ち切り、城の機能を徹底的に壊して廃城とし、原城がふたたび一揆の拠点となることを防止する意図があったことがうかがえます。島原·天草一揆が幕府に与えた衝撃の大きさを物語っています。

 

 

 

本丸跡の図

説明板の図だけ拡大しています

 

現在の本丸跡

サクラの木が植えられていて、高台にある公園です

 

片隅に

天草四郎時貞の像

長崎の平和祈念像で有名な南島原市出身の彫刻家 北村西望氏の作品とのこと

 

天草四郎について

小西行長の家臣、益田甚兵衛の子で、本名益田四郎時貞といい洗礼をうけてジェロニモと称し、籠城中に書いた「四郎法度書」にはフランシスコと署名しています。

恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったといわれ、また長崎へ行って勉強しているとありますが、詳細は不明です。

島原·天草一揆に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。一揆軍は88日間この原城に龍城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結しました。四郎はこの本丸で首を切られ、長崎でもさらし首にされました。

 

天草四郎時貞の碑

この碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものを、ゆかりの深い原城跡に移し供養したと言われている

 

原城本丸跡まで確認できたので、車まで戻ります

天気もイイのでかなり疲れてきていますが、歩くしかないのでひたすら歩く

もう歩きたくない感じで原城跡大手口駐車場にやっと戻って来た

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

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