「ソウルでは北の方から来た人々が
出身地別に一つの地域を形成していた。」
1950年5月、ソウルに住んでいた아버지(アボジ):父が
当時を回想した文章。
「たとえ家はバラックであっても数百軒づつ固まって、集団で住む。
ソウル竜山にある解放村は大きな街を形成し、
すべて北から避難してきた人々であった。
小さな子供たちはガム売り、新聞配達、靴ミガキ等、
三食を口にするためどんな仕事もしていた。」
1930年、植民地とされた朝鮮半島で生まれ
1945年、日本の敗戦によって祖国が解放され
1947年、38度線を越えてソウルへ。
日本に住むようになってからも
何度もソウルに行っていたアボジ。
* 1982年8月 アボジがソウルに行った時の写真(アボジのネガフィルムから) *
アボジがソウルに住んでいた1947年から1950年までの3年間。
場所も期間も分からないまま、別の手記を見ると
アボジは解放村に住んでいた・・・らしい。
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「해방촌:解放村(ヘバンチョン)に行こう。」
ソウル駅前から202番のバスに乗ると
4つ目のバス停で후암동:厚岩洞(フアムドン)、
해방촌:解放村(ヘバンチョン)の端に着く。
坂道を随分上がったのに、まだまだ坂道に囲まれた
この동네(トンネ):町での7泊8日。
左には護国神社へと続く階段だったと言われる108階段。
もしかしたら、70年前、この階段をアボジが歩いていたかもしれない。
해방촌 오거리:解放村五叉路(ヘバンチョン オゴリ)へと向かう道。
この右側の道をまっすぐ、階段を上がったり坂を上がったりして行くと
보성여자중고등학교:宝城(ボソン)女子中高等学校がある。
4月、この時はまだ知らなかったが
보성여자중고등학교:宝城(ボソン)女子中高等学校は
元の名が보성여학교:保聖(ボソン)女学校で
アボジが卒業した宣川中学校(旧信聖学校)が1906年創立、
保聖女学校が1907年創立で
ミッション系(大韓イェス教長老会)の同じ創設者達による同じ故郷の学校だった。
1935年に校名が保聖(ボソン)から宝城(ボソン)となり、
1942年に経営権が略奪されて宣川(ソンンチョン)女子商業学校に
1950年にソウルで宝城(ボソン)女子中高等学校として再建している。
この時の初代理事長がソウルの영락:永楽(ヨンナク)教会、
旧베다니(旧ベタニ)伝道教会を創立した한경직:韓景職(ハン・ギョンジク)牧師だった。
1955年に現在地の解放村に移った宝城(ボソン)女子中高等学校。
1979年のアボジの手記には
「保聖(ボソン)女学校」と創立時の校名になっている。
最近発見した1968年のアボジ宛てのエアメールの封筒にも
差出人の住所がこの보성(ボソン)女学校、
創立当初の校名「保聖」となっていた。
4月に보성:宝城(ボソン)が보성:保聖(ボソン)だと気付いていれば・・・
4月に보성:保聖(ボソン)女学校からの手紙に気付いていれば・・・
歩いて数分の場所に一週間いたのに。
バス停の前にはCafeが数件。
左が龍山高校、右が龍山米軍基地。
「 이태원터
조선시대 일반 길손이 머물 수 있던
서울근교 네 숙소(四院)의 한 곳」
この石碑は「梨泰院址」
朝鮮時代、漢陽都城の城壁外に、公務遂行や一般の人々の為に
寺院が運営していた宿が四つ(四院)ある。
そのうちの一つが、ここ「이태원:梨泰院」。
あとの三つは、보제원:菩提院、홍제원:弘済院、전관원:箭串院。
最近、「梨泰院」があった場所がここではないことが分かり、、、
「梨泰院」があった場所は、左の龍山高校ではなく
右の米軍基地の塀の中だったらしい。
正確な位置が分かっても米軍基地の中なので石碑は移動することが出来ない。
更に切ないのは「梨泰院」の名前の由来のひとつ。
임진왜란:壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が原因で、
この場所に「異態園」と呼ばれた場所があったこと。
異国との関係で犠牲になった人
正確な場所に引っ越せない石碑の事情
「 이태원터(梨泰院址)」の石碑の存在はとても重い。
「미군용 시설 무단출입 금지(米軍用施設 無断出入禁止) 」
旧日本陸軍の第20師団の練兵場だった場所が、今は龍山米軍基地に。
旧日本陸軍の第20師団の練兵場だった場所が、今は龍山米軍基地に。
練兵場の近くには、総督府が設置した公設市場があり、その建物が今も残っている。
「練兵場公設市場」とも呼ばれた「龍山公設市場」の看板は
「남영아케이드(南営アーケード゙)」
軍営や鉄道官舎があった龍山一帯では日本式家屋が今も残っている。
1922年に建てられ、
97年前には、この509㎡に14店舗が並んでいた龍山公設市場。
公設市場だった所から、米軍基地の塀沿いに
후암동:厚岩洞(フアムドン)と反対の方へ歩いて行き
駅のホームからは南営洞の「対共分室」だった「警察庁人権保護センター」が見える。
ホームに立つと一目で分かる異様な雰囲気の建物は、
박종철:朴 鍾哲(パク・ジョンチョル)さんが拷問によって亡くなった場所。
南営洞、米軍基地、숙대입구:淑大入口駅の方へ歩いて行き
解放村に戻り、108階段を(エレベーターで)上がり、
その周辺を歩くと・・・
古い屋根、店と店の間の狭い路地のひび割れたコンクリートの道、
歴史ある教会、昔からの市場、
リノベーションしたCafeが見せる昔のままの壁。
해방예배당:解放礼拝堂(해방교회:解放教会)
신흥시장:新興(シンヌン)市場の中へ・・・
いくつもあったはずの店舗は殆んどが改装中。
営業中のCafeへ
二階へ上がることに。
屋上へ上がることに。
신흥시장:新興(シンヌン)市場を出て振り向くと
出てきた所が入り口だったのか・・・
数か所あったような通路の全てが入り口でもあり出口なのか・・・。
解放村が見渡せる場所へ・・・
この家は、何の名残だろう。
いつ建てられて、誰が住んできたんだろう。
ある夜は남산:南山(ナムサン)タワーに行ってみたり・・・
ある夜は이태원:梨泰院(イテウォン)駅の方から解放村を見たり・・・
성북구 북정마을::城北区の北庭(ブッチョン)村に行った日も
종로구 서촌:鐘路区の西村(ソチョン)に行った日も
서대문구 홍제동、 인왕시장:西大門区の弘済(ホンジェ)洞、仁王(イナン)市場、
そして、대구:大邱(テグ)に行った日も
このバス停で降りて宿まで歩く。
毎日解放村に帰って来る、
ということが何とも表現し難い不思議な感覚だった7泊8日。
まだまだたくさん、知りたいことがある解放村。
まだまだたくさん、知りたいことがある解放村。
「また、해방촌:解放村(ヘバンチョン)に行こう。」


















































