新聞や雑誌の読み方 | 小松拓也オフィシャルブログ「小松拓也の中国記」Powered by Ameba

新聞や雑誌の読み方

毎日の生活の中で少しずつ新しい自分を探し出そうと意識をし始めて行動するようになり早くも2週間が経とうとしています。




僕の中で何かが変わったのか?





と言われればきっとそんなに早くは効果が表れていないでしょう。




でも同じ毎日を過ごすのだとしても、こうして毎日新しい自分を探し出そうとする試みは以前の何も考えずに行動してきた僕の暮らしよりも少しだけ発見に富んでいるのかな?とも感じます。










さあ、そんな中今回はこんな事にチャレンジしてみました。








それはどんなことかと言うと・・・?








「ニュースや新聞、雑誌を疑いを持って読んでみる」ということです。








そういった発言や主張をするエコノミストの方や著書なども世の中には存在するものですが、それでも実際にそういった一部の方の発言を真に受け、疑いの目を持ちながらニュースを見たり新聞を読んだりする人の割り合いは絶対数で言えば少ないのではないかと思います。




自分の意識の中ではニュースで流れている情報の全てを信じたわけではないつもりでいても、人間というのは与えられた情報に強く意識を先導されてしまう習性があります。




結果的にマスコミから得た情報を鵜呑みにしてしまっているというケースも決して少なくないはずです。









例えば僕が中国に住む中でよく感じる日本のマスコミや報道の極端に偏った中国情報というのは時に笑ってしまいそうになるほど現実とズレを感じる事があります。




最近では大分減ってきた方だと思いますが、日本国内では中国のネガティブな情報ばかりが目立つ傾向が昔からあります。




カメラで映して編集した一部分の報道だけを切り取って「現在の中国は~だ!」というような内容のニュースもいまだに見掛けるものです。




でも現実に中国に住んでいる僕ら日本人が本当に日本の報道で流れているような中国ばかりを体感したり中国人と接しているのでしょうか?




答えはノーです!!!







確かに日本の報道で流される中国の一面も現実にあり得るかもしれません。



でもそもそも物事というのはそのものを見る角度や捉え方を少し変えてみるだけで例え同じものであったとしても全く姿かたちが変わって目や心に映る事もあるわけです。



現実に僕の接してきた数多くの中国人の中には人間的に素晴らしいと思える人も多くいるし、僕は中国の素晴らしいと感じる文化や習慣もいっぱい知っています。



でもそういった角度から中国を日本に紹介しているメディアやコンテンツの割り合いはネガティブに伝えている報道の割り合いに比べて圧倒的に少ないのではないでしょうか?






報道というのは結局は人が作り出しているものですから組織や個人の主観がそこに強く反映されているわけで、それを鵜呑みにしてしてしまう行為というのは「この人の主張は100%正しい!」と決めつけてしまっている事と同じなのだと思います。







要は偏った情報しか手に入らないと人間はその限られたデータの中からでしか物事を判断する基準がないわけですから、結果的に情報元となるニュースや自分により近しい人の主張や発言というのが自ずと自分の考えの基礎になってしまうわけです。




考えてみればこれって凄く恐ろしい事ですよね~。




ある種のマインドコントロールに近い話です。








前述には日本の報道を例に話をしてきましたが、当然こういった報道内容と現実のギャップというのは中国の報道にもあるものです。




恐らく世界中どこの国にも存在するものなんだと思います。









でも正しい情報を仕入れる為に世界中のニュースを毎日見たり読んだり出来るのか?


もしくは自分自身の目と耳と足をもって世界中を歩き回って各国の文化や人に触れて歩き回れるものなのか?


と言えばそれは非常に難しい事だし、そもそもそこまでの労力を割いてまで情報を追う意味があるのか?と考えるとその答えも人によってまちまちでしょう。







だから僕個人はどうあるべきか?という点にのみ焦点を合わせると



僕は必ず日本と中国の両方のニュースを見てその中間の情報が自分にとってある程度正しい情報だと受け止めるようにしています。







大事なのは僕は1つの物事を見る時に1つの角度からしか見る事が出来ない人間でいたくない!という事です。










だから僕は今日も新聞や雑誌をめくりながらこれって本当かな?って心のどこかで感じる自分を意識してみるんです。




1つの情報だけで物事の全てを理解したような気持ちや考えになる事はあまりにも安易で偏った思考なのだと思います。








新聞や雑誌をめくりながら僕は今日も考えるのです。




「この情報はいったいどこまで正しいのだろうか?」










少なくても過去の自分には見つける事の出来なかった新たな自分がここにいるようです。