稚拙な理屈をパッションで補う。 | 生き心地の良いライフスタイルを目指して(K.TAKUYAのブログ)

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自分の持つ感覚を磨き直し、自分に気づき、生き心地の良さとはなんだろうと探求し、気が付いたことを書き連ねています。

自分を正当化しようとするための理屈を何とかこしらえようとする。

 

 

言葉に詰まってしまうと、何も考えていないのでは思われてしまうので、ついつい稚拙な理屈を口走ってしまう。

 

 

いくら考えに考えた理屈であったとしても、自分の頭の中で構築した理屈など高が知れている。

 

 

たまたま、あっちの点とこっちの点が結びついて、なんとなくまとまっているように思えるけれど、その結びつき自体が偶然の産物でしかない。

 

 

とは言え、単に感情だけが独り歩きしても自分の思いも伝わらないし、「それで?」となってしまう。

 

 

自分を守ろうとする時には必死になるが、必死になり過ぎて、かえって我を忘れてしまい、自分でも何を言っているのか分からなくなってしまうことがある。

 

 

ただ、必死になっているということは、それだだ自分の中から湧き上がる熱い思いのようなものがある。

 

 

たとえ理屈が多少拙いものであったとしても、そこに熱いパッションが乗っかると、説得力が増してくる。

 

 

何とかこしらえようとしている理屈に、自分のパッションが乗せられるかだ。

 

 

新しいことをしようとする時には、それが出やすいけれど、何かを避けようとしたり逃げようとする時には、なかなか自分のパッションが乗っからない。

 

 

避けようとしたり、逃げようとする時には、パッションが乗りにくい分、理屈は緻密に組み立てる必要がある。

 

 

いつも新しいことにチャレンジ出来る訳でもない。

 

 

時に避けたり逃げたりすることもある。

 

 

自分が口走る理屈の使い方、理屈の密度の濃淡は、ケースバイケースということなんだろう。

 

 

ただ、どうも僕は理屈を述べる際の時と場合を間違ってしまっている事が多い。

 

 

そんなことを思ったりするのです。