同じ動作をしていても、時と場所が違えば、自分自身も違ってくるのだろうか。
コーヒーを飲むという行為にしても、家のダイニングテーブルで飲む時、ソファで飲む時、職場で飲む時、スタバで飲む時、ドトールで飲む時、それぞれの僕がいるような気もする。
コーヒーの種類も違えば、カップも違うし、座っている椅子も違うけど、そう言った環境だけの違いで飲んでいる自分は自分なんだとも思うのだが、やはり、そのシチュエーションを選んでいる自分は、その時々で違っているのではとも思ったりする。
職場で見せる自分と、自宅でぼーっとしている自分と、外出している自分は違う。
そもそも着ているものだって違う。
職場ではスーツを着て割とタイトな格好をしているし、家の中ではTシャツやスウェットだったりするし、プライベートな外出であれば、ややオーバーサイズなブルゾンだったりセーターを着たりする。
着るものによって「装う」と言うことはあるけれど、自宅のTシャツやスウェット姿の自分だけが本当の自分なのかと言えば、そう言うことでもない。
スーツを着た自分も、ユニクロを着ている自分も、ブランド物を身につけている自分も、自分だったりする。
色々な自分がいて、別に環境に合わせて自分を作っているという意識もない。
自分軸ということを考えた時、全ての自分を統合させなければならないのだろうか。
職場にいる時の自分と自宅いる時の自分が違っていてもいいんじゃないか。
というより、それぞれの環境で違っている自分を認めていかないと、逆に苦しくなってくる。
どんな時も、どんな場所でも首尾一貫して同じ自分であらねばならないとなった時、どこかの場所での自分はきっと無理に装っている自分だったりする。
むしろ首尾一貫していないことによって、自分というものが保たれるんじゃないか。
作家の平野啓一郎さんは「分人」という概念を提唱しているけれど、そうすることで少なくとも僕は少し楽になるような気がする。
同じ肉体、同じ顔でも違う自分がいて、どれも自分なんだと。
そして、今やメタバースと言われる世界が急速に広がりを見せている。
自分の肉体ですら、アバターによっていくつも作ることができてしまう。
アバターを別に自分に似せて作ることもない。
ただ、日常生活でリアルに出会っている人たちにメタバースの世界で自分を認識してもらうには、自分に似せて作ったほうが分かりやすい。
あまりに違うキャラクター、それこそ年齢も性別も違うようなアバターだと、リアルで会っている人たちに自分を認識してもらったにしても対応に戸惑うだろう。
外見の全く違うアバターを設定することで、今までとは違う新しい自分を作り出すということもあるかもしれない。
ただ、そうした全く違う自分を作り出した時、果たして、そこに無理な装いがないかと言えば、多分どこかでキャラクターを演じることになるのだろう。
いや、でも所詮は社会という中では誰もが無意識のうちに演じている部分があるのかもしれない。
シチュエーションごとに演じている自分がいるのだとして、それが疲れるかどうかは、意識的か無意識なのかということに関わってくるのだろう。
意識して演じ分けていれば、さすがに疲れるけれど、無意識な演じ分けが疲れないかというとそうでもない。
疲れすら感知できないほどに演じ分け、気が付いたらヘトヘトで動けなくなるということもある。
職場でコーヒーを飲んでいる自分と自宅でコーヒーを飲んでいる自分は違うけど、それぞれの自分は自分なんだと。
洋服を着る時、自分の体型やスタイルを分かった上で、ファッションアイテムを着こなすのが大事だったりする。
そうでないと「着せられている感」が満載になる。
装うことで違う自分にスイッチが入るということはあるけれど、どの自分も自分にフィットしているか、ということかもしれない。
アバターであっても、きっと同じなんだろう。
そんなことを思ったりしたのです。