足るを知る者は富む(知足者富)という言葉がある。
老子の言葉だそうだ。
前半の「足るを知る」ということはよく使われるし、僕自身も使ったりする。
ただ、どうも「足るを知る」だけだと、どこか「諦める」なニュアンスで捉えてしまう自分もいたりする。
そして諦めることを意識した時、同時に諦めきれない自分もいる。
諦めきれないから、何かを足そうとする。
足そうとするから、自分の中の足りない部分を見つめてしまう。
「諦める」は「明らめる」だとも言われるけれど、自分を明らかにするために見つめた時、自分自身ではなく、今の自分に無いものに目が行ってしまう。
やはり、言葉というのは最後まで聞くものだ。
「足るを知る者は富む」となると、また違った印象になってくる。
僕自身が今のままで完全体であるが故に富むのであって、そこから変に足そうとするから、おかしなことになり、貧し鈍すのだろう。
「富む」は経済的なことだけを言うのではなく、精神的なことも含めた全般的なことで、足るを知ることで、自分の全ての面に自然と調和が取れ、そうしたバランスによって結果として富むと言う状態に至るのだろう。
逆に僕は余計なものを既に足していないだろうかと思ったりもする。
余計なものはむしろ引いた方がいいんじゃないか。
執着というのも、そうしたものの1つなのだろう。
足るを知ることは、逆に余計なものを引くと言うことでもあるんじゃないか。
足すことなく、そして不自然なまでに足された余計なものは引くことが腹落ちした時、自然と富んでくるんだろう。
あるいは、もう既に十分富んでいるのに、それに気が付かずに、何かを足そうとして追い求めているんじゃないか。
色々と気付きがある言葉だ。