何かを選択する時、自分にとって価値が高いと思うことを選択する。
AとBが提示されていたならば、自分にとってA>Bならば、Aを選択する。
どっちも同じぐらいであれば、価格で選ぶかもしれない。
選ぶ時の基準は自分の中にある。
その際に損得は一つの基準になってくる。
自分にとっての価値が価格を上回るか下回るかを比較する。
その時の価値には、自分にとってのメリットかもしれないし、自分の心の中にある負い目とか負債を埋め合わせるため、ということもあるかもしれない。
いずれにしても、そこには損得勘定がある。
ただ、損得勘定はモラルハザードを起こす。
モラルとして大事なことが、損得勘定の次元では許されてしまうことにもなる。
外国の保育園で、親御さんの迎えの遅刻に悩まされていたので、罰金制にしたら、かえって遅刻が増えてしまったという例がある。
遅刻しないというモラルが、罰金を払う払わないという損得勘定によって、罰金を払えば遅刻しても良いとなってモラルが崩壊した。
一度、損得勘定の沼に落ちると、そこからモラルの問題、意識の問題に引き上げるのは難しい。
自分の好きなものと得なものとを自分の中で天秤にかけること自体が、すでに損得勘定に絡め取られているとも言える。
しかし、天秤というのは比較の物差しで、自分という存在自体が誰かとの比較によって明らかになる。
どうも、損得勘定というのは自分が思っている以上に深いもののようだ。
今は、それだけしか分からないのだが。