自然は何も所有せず、ただそこに在るのみで、主語を持たない。
一方で僕らは何かと所有したがる。
「僕らは」という時点ですでに主語がある。
僕らは持ちたがるのは、物質的なものばかりではない。
お金を追求することもあるけれど、お金で買えないものであっても欲しがる。
自己顕示欲だとか承認欲求といったものもあれば、誰かを支配し意のままに操る権力を持とうとしたり、感動といったものも所有したがる。
やたらと写真やビデオに撮りたがるのは、感動を記録して所有したいという現れかもしれない。
ただ、僕ら人間も自然界の一部である。
究極的なことを言えば、何も所有せず、何者にも所有されていない存在と言える。
それでも、僕らは普段から何かを所有しているし、またより多く所有したいと思っている。
目の前にあるコーヒーカップもパソコンも自分の持ち物だと思っている。
ただ、実際には目の前のコーヒーカップやパソコンは、僕といい関係にあるに過ぎないんじゃないだろうか。
僕らは誰かを所有することはない。
俺の女だ、わたしの彼氏だ、といったことを言葉として表すことはあっても、実際には自分と彼、彼女との間に何かしらの繋がった関係があるだけに過ぎない。
それを「所有している」と勘違いするのは、そこに支配するという力があるからじゃないのか。
支配するということは、それを自分の意のままに操ることができると思い込んでいること。
コーヒーカップを意のままに操ることができるように、人をも操ることができると思っているから、人を所有するという感覚になってしまっている。
そして、自然界は意のままに操ることができないから、誰もそれを所有していると思わない。
でも、僕らは本来的には何も所有していない。
あるのはいい関係で繋がっているだけ。
そして、その関係を傷つけられた時、怒りを覚える。
逆に傷つけるような行為は、関係を断ち切るということになる。
単に繋がっているに過ぎない関係であるにもかかわらず、自分が支配して意のままに操ろうとする時、それは関係に傷をつける行為になる。
人であれ、物であれ、いい関係であるには、お互いをリスペクトする気持ちがないと続かない。
リスペクトのない、さらに言えば人格を傷つけるような振る舞いは、関係を傷つけ、離れていくことになる。
コーヒーカップだって粗雑に扱えば、壊れてしまう。
壊れたコーヒーカップを僕らは捨てることになるが、それはコーヒーカップの側から見れば、僕らとの関係を断ち切っているとも言える。
つまり、僕らはコーヒーカップに見捨てられたと。
所有するものは何もなく、そこにあるのはいい関係で繋がっているだけなんだと。
そしてお互いがいい関係でいられるのは、お互いのリスペクトがあるからこそだ。
そうしたリスペクトは、一旦築けばずっと続くというものでもなく、メンテナンスが必要になってくる。
そして、いくら丁寧にメンテナンスしても、壊れてしまう関係だってある。
それはどうしようもない。
コーヒーカップだって、いくら丁寧に扱っても、壊れてしまうことはある。
悪ノリの粗雑な関係は、一瞬はいい気分になるかもしれないが、リスペクトのない関係はすぐに壊れる。
自分は果たしてどうだったんだろうかと今一度、振り返ってみたいと思っている。