誰かに訊かれているわけでもないのに、自分の頭の中で、自分の行動の理由を考えてしまっている時がある。
その中には言い訳めいたものもあったりする。
外からの目線というのは、それがたとえ直接には見られるようなことをしていなくても、感じたりするものだ。
外からの目線というのは、自分への問いかけとして感じたりする。
ほとんど妄想と言っていい。
妄想している外からの問いかけは、「何をしているの?」とか「なんでやっているの?」といったものが多い。
そして、そうした問いかけへの答えを頭の中で用意しようとする。
「私は〜をしています。それは〜だからです。」
という言葉を事前に用意しておけば、それ以上の相手からのツッコミはなくなる。
だが、誰も見ていないし、誰からも訊かれていない。
事前にそうした答えを頭の中でこしらえようとするのは、誰かに見てもらいたいし、誰かに訊かれたいからかもしれない。
つまりは、自分という存在を認めて欲しい、ということなんだと。
だが、たとえ誰かが見ていて、訊ねたとして、「私は〜をしています。それは〜だからです」、という答えを事前に用意していたならば、それ以上、何も訊かれなくなるし、見てくれた人の関心を他に移ってしまう。
用意していたことで、逆にかえって自分への関心は無くなってしまう。
少し飛躍して考えると、自分を見て欲しいと願うほどに、自分に対する関心は引かれてしまう、ということにもなる。
それでも頭の中で理由を考えてしまうのは何故なんだだろうか?
きっと、何か訊ねられた時に、言い淀むことなくスムーズに答えられるのが良い、そうすることで自分がよく見られる、という思い込みがそこにあるのかもしれない。
こう書いていて、随分と勝手な思い込みだけが先走っているな、と思ったりする。
だけれど、こんな先走った思い込み、膨らむ妄想、こうしたことが僕らの承認欲求の先にあるのかもしれない。
そう、誰も見ていないし、誰からも訊かれていないのに。
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