こんなことを聞かれたことがあった。
「今まで一番楽しかったことはなんですか?」とか「今までで一番幸せだったことはなんですか?」
そのとき、なかなか答えを探すのに苦労した。
その場の空気を読んだ答えでないと、というのもあった。
(小さすぎず、大きすぎず、高尚すぎず、下劣すぎず)
また一方であれは本当に楽しかったのか、本当に幸せだったのだろうか、という思いが去来した。
それでだんだん焦り始めて、無理やり過去の記憶を引っ張り出してなんか答えたんだと思う。
とにかく答えを言っとけと。
まあ、言ったら言ったで、必ず何か言われるわけで、過去の記憶を引っ張り出すと、そんな昔に遡らなければないのか、とも言われたりする。
どうも、楽しいとか幸せだ、という感覚のハードルをかなり高く置いてしまっているようで、楽しいは「楽しい!!!」ぐらいの感覚でないと自分で楽しいと認められないとしていたのかもしれない。
幸せについても、今こうして音楽を流しながら一人でブログを書いているけど、このことを十分に幸せだと受け入れることができているだろうか。
もっと広い部屋じゃないと「幸せ!!!」とならない、そこに好きな誰かがいないと「幸せ!!!」とならない、などと思ってしまうかもしれない。
幸せと感じるのはあくまでも主観の問題であって、何かと比較するようなものではない。
まあ、そんなことを頭では十分にわかっているはずだが、例えば休日に街中に買い物に行ったり、友人たちのFacebookの投稿を見たりすると、自分の不足感を思ったりする。
また、今について幸せ感を持てないと、過去に記憶で美化されたものに幸せ感を求めてしまうかもしれない。
たまに、昔付き合っていた人や、かつての職場のことを思い出している時には、今のどこかに不満を感じているか、少なくとも今に幸せを感じていないからかもしれない。
まして、昔付き合っていた人とヨリを戻したい、なんて連絡を取ろうとしている時は要注意だろう。
もちろん、今の自分の取り巻く状況がクソみたいだったり、体調が思わしくなったりして、どう頑張っても幸せに感じられないこともある。
そこを無理にポジティブ思考だ、としても逆効果でしかない。
全てが楽しく幸せだ、ということはない。
以前、何かの洋画で「perfect day」に「最高の日だ」と字幕が付けられていた。
その日は地球が崩壊しそうな日のことだった。
どうやらPerfect、つまり完璧な幸せは、自分の最期に訪れるのかもしれない。
だが、それでは、その日が来るまでずっと不幸で不機嫌な日々が続くのか。
そんなことはない。
楽しさや幸せにも、どうやら僕らの持つ完璧主義が顔を出してしまっている。
まあ楽しいんじゃない、これって幸せかもなあ、ぐらいのことでいいんじゃないだろうか。
そして、最初に出てきた質問、「今まで一番楽しかったこと」「今まで一番幸せだったこと」についても、「一番」にこだわることなく、直近で感じたことをでいいんじゃないだろか。
完璧な楽しさや完璧な幸せ、なんてものはないのだろうから。
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