「ちゅらさん」に毎回涙がとまらない。
特に今日観た80話前後。
「ガジュマルの樹の下で」の週。
つまり、とうとう、エリーが積年の思いを告白。
ダメそうな雰囲気で一部除く全登場人物が意気消沈し、菅野美穂と小浜島に戻るエリー。
文也君がケイタツに殴られてからの小浜島。
「ちゅらさん」の「おもしろさ」本質を私なりにこのところずっと考えながら観ています。
当初から、「ベタすぎて」「何がおもしろいのかわからない」のに「どういうわけかメチャクチャおもしろい」と書いてきました。2001年放送当時からそう思ってました。
この「どういうわけか」がなんとなく今回ぼんやり見えてきました。
やはり「菅野美穂」がその鍵を握ります。
本来、薄汚れたわれわれ「よくあるドラマ」に馴染みすぎた人間は、
菅野美穂の演じる小説家「マリア」さんのように、
「ベタな展開を斜めからみて」
「毒舌的な皮肉な視点で」
「そんなご都合主義な展開あるわけねーだろと」
「そんなアホみたいなヒロインがいまどきいるわけねーだろと」
「そんなピュアな物語があるわけねーだろと」
「そんないい人たちばっか集まるわけねーだろと」
「人間がそんなに変わるもんじゃねーし」
「子供の頃に好きだった人と結ばれるわけねーだろと」
「奇跡なんかねーし、神様なんかいねーんだからと」
ドライでシニカルで疑い深い物の見方をずっとしているわけです。
だから、主人公のコントラストとして、黒い服を着たマリアさんは常にそばで観察しているわけです。
物語を際立たせるための「つっこみ役」として。
そうして、思いっきりマリアさんに「ダークなつっこみ」をさせといてからの
びっくりするほど「ベタ」で「都合のいい」「まさかの」展開。
一歩間違えるほど、マジで引くほどダサイ展開に、
全国民が涙するわけです。
脚本の岡田さんのことは、このちょっと前にあった「彼女たちの時代」という傑作で注目しました。
深津絵里たちが主演するこのドラマの、あまりの「リアリズム」の「鬱展開」はドラマ史上最高峰。
あーれはメチャクチャ暗かった物語でした(特に椎名桔平がリストラされる部分)。
その「どん底」を描いた岡田さんだからこそ、この「底なしにノー天気」な女性主人公を書いたんだなーと思うのです。
このところ、ずっと「量子力学的」な哲学・思想の本ばかり読んでいると常に出てくるのが、「観測によって実体化する」というテーゼです。
あらゆるものは本来、ふわふわした「波」の状態のものが、「観測される」ことによって「固定化」するという、有名な量子の「二重スリット実験」。
このことから推論して、「世の中は観測者が実際に望む(観測する意向)ように実体化していく」という考え方がよく言われるようになってます。
毎日毎日「ツイてない」「この世の中は全然ダメ」「日本はダメだし世界もダメ」「自分はダメだし周囲もダメ」「こんな世の中とにかく最悪」とか、思っていると、実際に世の中も自分もそういう「ダメ」なものとして実体化していく。
しかし、逆に、毎日毎日「オレって超ツイてるし」「メッチャ運がよくて」「いっつも自分がこうなりたいと思ったらたいていホントにそうなるんだよね」「世の中いいことばっかりだし」「自分が良くなれば、鏡のように周囲の人もみんな自分に良くしてくれる」とか、そんなことばっかり思っていると、ホントに世の中も自分もそうなってくる、かもしれない、みたいな。
「ちゅらさん」を観ていると、主人公エリーが「バカ」丸出しに「ポジティブ」過ぎて、「都合のいいこと」ばかり信じてその通りになるように努力していくと、なんかしらんが、神様が味方してくれて、どういうわけか、最終的にいいことばっかり起こっちゃう。
偏屈だった周囲の人たちも、どんどんエリーに感化されて、みんながちょっとずつ幸せになっていく。
そんな「ご都合主義」なお話とか、「あるわけねーだろ」と、昔の私や、菅野美穂のマリアさんは言うんだけど、結局、エリーの「明るい未来を信じる姿」には負けてしまう。
ご都合主義で何が悪いかと。
世の中やっぱり「自分が望んだ通り」に現実化していくんじゃないかと。
「彼女たちの時代」で世の中を最悪なものだと認識していた岡田脚本ですが、「ちゅらさん」では一周まわって、いやいや、やっぱりポジティブに考えていた方が、結局人間感動的に幸せになれるんじゃないかと、そんな物語になっているようです。
「ちゅらさん」泣けます。
そして、読み取り方によっては、意外と深い。量子力学的ドラマ。
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2024年は大変な始まり方でしたが、
これからV字回復で、皆様にとってすばらしい一年となりますことをお祈りします。
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