いつも浅田真央の傍らに支え続けた母 ・匡子さん
2011/12/9 23:42 日本経済新聞
亡くなった浅田真央選手の母・匡子
(きょうこ)さんのことを浅田選手と同様、
私たち記者も「ママ」と呼んでいた。
2005年 のグランプリ(GP)ファイナルで
優勝して国民的人気者になってから
10年2月のバ ンクーバー五輪まで、
浅田選手のいるところには必ずママがいた。
練習から海外遠征もそれこそずっと一緒。
「ママは試合を見ないで」。
浅田選手の要請もあって、
試合の本番だけは会場にいなかったが……。
06年、山田満知子コーチの元を離れて
米国ロサンゼルス近郊に拠点を移し、
08年からロシアのタチアナ・タラソワコーチに
指導を仰ぐようになった。
そのとき、まだ浅田選手は16、17歳、
その決定には
ママの意向が大きく働いたのは間違いない。
ライバル・金妍児
(キム・ヨナ、韓国) 選手の
コーチは五輪の開催地であるカナダ の英雄、
ブライアン・オーサー氏。
対抗するには別のフィギュア大国・
ロシアのコーチが必要だった。
「タラソワ先生の力がいるの」。
とうとうと語るママの姿は熱かった。
しかし、タラソワ・コーチを頼った結果 、
バンクーバー五輪シーズンのプログラムが酷評され、
浅田選手も思ったような演技ができない試合が続くと、
ママにもだんだん疲れが見えた。
もともと体が丈夫でないと聞いていたが、
明らかに顔色が悪くなり 、
こちらが心配するほどだった。
「ねえ、どうしてヨナにあんな点を出す のかしら。
あれじゃ真央がいくらトリプルアクセル
(3回転半ジャンプ)を跳んでも勝てない」
浅田選手が銀メダルに終わった
バンクーバー五輪のエキシビション当日 、
ママに涙ながらに訴えられたこともあった。
「真央、反抗期みたい。真央ははっきり言うのよ。
あの顔で得しているけれど」と 言ったのは08~09年ころ。
「もう、ママと練習するのは嫌だ」。
浅田選手が涙ながらに反発したこともあったが、
やっぱりママ は特別な存在。
同時期、一生懸命に写真を撮っている
浅田選手に遭遇したことがある 。
「ホテルで待ってるママに見せるの」
とうれしそうに話していた。
バンクーバー五輪の後、
ママはめっきり姿を見せなくなった。
「バンクーバーで燃え尽きたんだって」と、
風の噂で耳にした 。
10年9月、佐藤信夫コーチについてから 、
ママの話題も出なくなった。
最後に姿を目にしたのは昨年12月の全日本選手権。
小さいころから、浅田選手のマッサージはママの仕事。
「マッサージャー よ。試合は見ない、見ない」。
笑顔で話していた。
以降、体調が悪くなっていったのだろう。
連絡もとれなくなった。
それと並行するように、浅田選手は車の免許をとったり、
めっきり大人びていった気がする。
「でも真央ちゃんには大きな存在よ。
よーく『ママにも教えてあげなきゃ 』
って話してるもの」
と佐藤久美子コーチ 。
多分、ママが心配だったのだろう。
しかし、浅田選手はそんな感情を
おくびにも出さなかった。
(原真子)
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「ねえ、どうしてヨナにあんな点を出す のかしら。
あれじゃ真央がいくらトリプルアクセル
(3回転半ジャンプ)を跳んでも勝てない」
の部分
やはり真央ちゃんのお母さんも
採点に疑問を感じてたのかな。
あのオリンピック採点はホント悪夢のようだったな
それに続く2010年世界選手権も...
それにしてもこの動画
http://www.youtube.com/watch?v=tpEn5HFsvq8&feature=youtube_gdata_player
久しぶりに見た。
今見ても感慨深いものがある
真央ちゃんと匡子さんの"絆"が見えてくるね
でも舞ちゃんがいてくれて本当に良かった...
これからもずっと応援していこう
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