はじめに
先進工業諸国における高度経済成長が終焉んを迎えた1970年代は、戦後資本主義の転換点をなすと同時に、経済学における一転機でもあった。世界資本主義が混迷を深める中、経済学における支配的パラダイムたる新古典派理論がその矛盾と限界を露呈するとともに、正統派経済学に対する知的挑戦が様々な形で展開された時代でもあった。
その当時、世界的な貧困の増大、環境汚染、軍事支出の拡大などの社会問題が深刻さを増していたにもかかわらず、新古典派経済学がそれらの問題を直視することなく現実社会から遊離した抽象的な理論的・計量的モデルの彫琢に終始していることに、多くの人々が批判を投げかけていた。また、ベトナム反戦運動を導火線とする急進的な学生運動の効用に象徴されるように、既存のあらゆる価値観に対する異議申し立てが世界的な規模で展開され、その中で既成の経済学への深い疑念が喚起されたことも、経済学の革新を求める運動促進する一要因として作用した。さらには科学史と科学哲学における新たな展開も、経済学の革新運動の高まりをもたらすうえで重要な役割を果たした。とりわけ、「科学革命」の概念を用いて科学的知識の成長過程を説明したトーマス・クーンの『科学革命の構造』は、異端派経済学者たちに大きな知的刺激をあたえた。新古典派経済学に危機の兆候が現れた折、彼らは、経済学におけるパラダイム転換の鍵を同書のなかに探り当てようとしたのである。
その生涯にわたってケインズ革命の完成への道をいちずに追求し続けたジョーン・ロビンソンが、1971年にアメリカ経済学会のイーリー講演において「経済学の第二の危機」の到来を告げたのは、このような社会的・学問的状況を背景としてのことであった。この講演において彼女は、軍備の肥大化、環境汚染、不平等の拡大など、人々がもっとも解決を必要としている問題について経済学は何も語ることができないでいると述べて、経済学の破産を宣告したのである。この講演を一つの大きな契機として、代替的な経済理論を希求する多くの若き共鳴者たちが結集し、ロビンソンを盟主に仰ぐ経済学の新しいパラダイムが登場するに至った。こうして、ポスト・ケインズ派経済学が誕生した。
戦後ながらく「ポスト・ケインジアン」という名称は、特定の理論上の立場をさす用語としてではなく、ケインズ以後のマクロ経済学の展開を総称する用語として広い意味で用いられてきた。しかし、「政治経済学の再構築」を自らの目的として宣揚し、新古典派経済学にとって代わる新しいパラダイムの形成をめざす一つの研究集団が出現するとともに、彼らは自らを指す呼称として「ポスト・ケインジアン」という用語を自覚的に選びとったのである。アイクナーとクレーゲルの論文「ポスト・ケインズ派理論概説━経済学における新しいパラダイム」は、この新しい経済学の登場を広く世に知らしめる大きな役割を果たした。そして1978年にJournal of Post Keynesian Economics誌が創刊されたことによって、ポスト・ケインズ派という名称が定着するに至った。当時のポスト・ケインズ派経済学者たちは、自らが経済学における革命の時代を生きており、経済学は今まさにパラダイム転換の縁にあるという知的興奮に包まれていた。スラッファの主著『商品による商品の生産』の交換が契機となって生じた「ケンブリッジ資本論争」の結果、新古典派経済学の矛盾が明らかとなった。対抗的なパラダイムはすでに用意されている。古い世代の経済学者たちの理論は破綻し、経済学の未来は若い世代の側にある、と彼らは強く信じていた。
それ以来、今日にいたるまでポスト・ケインズ派は、代替的な経済理論の構築に向けての挑戦をたゆまず続け、数多くの優れた学問的成果を生み出してきた。それにもかかわらず、経済学の世界におけるポスト・ケインズ派の影響力は、依然として周辺的なものにとどまっている。多くの主流派経済学は、ポスト・ケインズ派経済学とは雑多な思想の寄せ集めにすぎず、一貫性のある体系的な理論的枠組みを提示しているものではないと見ている。しかしながら、このような見方はポスト・ケインズ派の現状を正しく捉えたものではない。その生誕以来40年のあいだに、ポスト・ケインズ派は、理論・方法・政策の各分野において枠組みの拡張と展開を盛んに進めてきた。その結果、その枠組みは首尾一貫した経済学体系へと進化しているのである。
本章は、ポスト・ケインズ派経済学の歴史を回顧するとともに、その現状と将来について展望する。それを通じて、経済学において新古典派的な指向が支配的となっているなかで、ポスト・ケインズ派経済学の存在意義がどこにあるのか、そしてその将来の発展のための活路がどこにあるのかについて考えてみたい。