写経します。
「官房学」という用語は、国庫を意味するラテン語「部屋」に由来する。領邦議会という機関、すなわちドイツ語圏諸国で「官房」と呼ばれるようになったその機関は、皇帝マクシミリアン1世のもとで、再世にオーストリアに成立した。まもなくバイエルン、ザクセンおよびブランデンブルグが、このオーストリアの先例にならった。領邦議会は公的支配地域の管理・行政のための機関となった。
この機関が携わったことは、おもに各統治領域の経済的・政治的集権化、君主の財政的・政治的独立の独立強化、さらに生産力の向上である。初期官房学の行政官たちは、貨幣そのものは富ではなく重要な交換手段のひとつにすぎないという確信や、領邦の富は生産力にのみならず国民の技能と成功にも存すると確信を抱いていた。
(貨幣そのものは富ではない、っていうのは、なるほどなあって感じだ。)
16世紀のドイツは、経済的に独立し宗教的に反目しあう多くの主権国家から構成されていた。宗教改革を推し進めた中心的教説であるルター主義は、1555年のアウグスブルグの和議によって公認された。しかし、カトリック体プロテスタントという君主間の政治的・経済的抗争と非ドイツ諸国の利害とが原因で、ドイツの諸領邦を完全な崩壊の瀬戸際にまで追いやった30年にわたる一連の政治的・宗教的戦争が引き起こされた。地方の諸君主の財源は枯渇し、地方も都市も労働と技能の著しい不足に直面した。耕地はおろそかにされ荒廃してしまったので、再び開墾されねばならなかった。したがって、各領邦にとって最も重要な課題は、領邦の存在そのものを守るために権力を強化することであった。この自己保存の戦いにおいて官房学者たちに与えられた役割は小さくなかった。
(ここら辺の経緯はまったくわからんち。世界史ちゃんとやっとけばよかったな。とにかく政治的な理由で、財政を強化する必要性から官房学者が重要視されたってことかな。)
彼らの活動は国家に十分な歳入をもたらすことに常に集中してはいたが、30年戦争によってもたらされた経済的困難に対処するためには古い方策の洗練とともに、新しい方策の導入が必要とされた。この過程を著しく特徴づけたのは、財政における集権化である。税法に基づく徴税を目的として、中央政府による特設の諸官庁が作られたのであり、単一の国内法が制定され、産業はギルド組織から解放された。
(ギルドってよく聞くけど、なんだろ。ギルドとは、中世のヨーロッパで、技術の独占などのため、親方・職人・徒弟から組織された同業者の自治団体。)
貨幣は権力強化の基本要因であったから、歳入を目的とする数多くの新しい介入策-通行税、関税、消費税、特権の販売-が導入された。官房学者たちには多くの仕事が求められ、このことがまた、官房学それ自体をさらに発展させる刺激となった。それまで法学の一領域であった官房学は、今や「絶対主義国家に奉仕するものとして位置づけられて、様々な行政的職務の機能に関して、官僚教育の基礎となる体系的記述をもたらすよう試みる」独立の学問として姿を現したのである。それは、農業経済学・人口政策・財政管理に関する理論となった。この新しい複合的学問は、国から必要とされるにつれて、また創造的精神が自由になるにつれて成長していったのである。
(人口政策→狭義には,出生,死亡,人口移動のような人口現象に影響を与えることを意図した公共政策のことをいう。広義には,なんらかの経済的・社会的変化によって生じた人口現象に対する政策,たとえば人口急増市町村での義務教育児童のための学校施設増設などの文教政策などをも含めていう。)
その新しいアプローチの主要な課題は、家産制国家の膨大な諸活動をキリスト教思想の観点から管理運営する目的で官僚を教育するための一連の諸原則を、確立することであった。官房学は理論的問題よりも実践的諸問題と多く関連していたとはいえ、まさにその端緒から数多くの独創的な構想や思想の形成に貢献してもいた。しかも、そうした構想や思想が、後に財政、経済、統計および政治をめぐるドイツの諸学問の発展のためのいわば建築ブロックとなったのである。
(いくつか知らない言葉が出てきた。まず家産制は、ハラーが,君主が自分の私的な家産として取り扱っているような国家を家産国家と呼んだことに由来するが,家産制の概念を明確な社会科学的概念として確立したのはM.ウェーバーであり,この概念は今日ではほとんど例外なくウェーバーの規定した意味で用いられている。 ウェーバーは正当的支配を,合法的,伝統的,カリスマ的支配の三つの純粋型に分類するが,家産制は伝統的支配に属する支配の類型である。)
(家産制国家とは、領土や人民などがすべて君主の私有物となされる国家。封建時代の国家、ことに領主国家がこれにあたる。家産とは、一家の財産。)
官房学説の重要な諸構想のうちのひとつは国家構想であった。それは、集団的利益を代表する国家的利益に個人的利益が従属するという基本的前提に基づいていた。これは、当時の一般的な政治哲学思想と一致していた。官房学者たちは、国家と個人の関係を身体における諸器官の機能的相互関連のように描いたのであり、そこでは心臓や頭脳の役割を絶対的統治者が果たす一方、市民は手足として活動し生活するものと考えられた。
(おもしろいなあ。これの対極にある考え方は、名前で言うとなんて言うんだろ。なんとなくだけど、現代はこれじゃないような気がする。)
彼らはまた国家の有機体的構想が意味するのは、国家の全成員間における相互関係や相互依存であった。この国家構想は、絶対的統治者と国民との間の自然的有機的関係へのどのような介在物も-例えばクラフト・ギルドのような自治的諸組織の存在といったものも-協働社会の社会的・経済的福祉にとって有害であるとみなすような社会協約にまで行き着いた。
(クラフト・ギルドがわからないけど、この「絶対的統治者と国民との間の自然的有機的関係へのどのような介在物」ってのは、現代で例えるとなんになるんだろ。いまいちピンとこない。なんでそれを有害とするんだろ。)
他方、家父長的諸傾向は自然なものと見なされた。こうした思想に的確に反映されているのは当時の現実、すなわち個人として進取精神を持ちえず自らの意思決定することに不慣れで無教養な農民と職人とが国民の大多数を占める当時の現実であった。彼ら国民は、保護者・後見者としての統治者とその政治を仰いでいた。
(家父長制とは、父系の家族制度において、家長が絶対的な家長権によって家族員を支配・統率する家族形態。また、このような原理に基づく社会の支配形態。キモイ。)
しかしながらその大衆も、適切に組織されかつ教育されれば国家に利益をもたらすことになる潜在力であることを示していた。国家の有機体的構想は、ドイツ的自然権理論によって裏付けられていたのであり、しかも、この自然権理論は個人の自由という概念を強調するものではなく、社会協約においてともに結合された複数の個人意思の結合から形成される普遍的国家意思を強調するものであった。
(自然権とは、法的規定前に人間が本性上もっている権利をいう。伝統的「自然法」を社会形成の積極的な構成原理に援用した際に生れた近代的な観念である。思想的先駆は T.ホッブズで,彼は個人の生存の欲求とそのための力の行使を自然権として肯定した。自然権は政治的変革を正当化する原理として歴史的に重要な機能を果すとともに,現代の人権思想の根底ともなった。 J.ロックは「生命,身体および財産」への権利であるとし,国家はこの自然権を保障するための組織であるから,いかなる国家権力も自然権を侵害することは許されず,そのような侵害に対して人民は抵抗権をもつと主張した。このロック的な自然権は,アメリカ独立宣言とフランス人権宣言において成文化された。)
(社会協約という言葉がいまいちわからないな~。その代わり、有機体という言葉の意味を一度さらっておこうと思う。有機体とは、生命現象をもっている個体、つまり生物。有機体においては各部分が互いに関係をもつとともに全体との間に内面的な必然的連関をもち、単なる部分の寄せ集めではない一つの統一体をつくる。広義には、こうした有機体の本質に類比させて社会・国家・民族をもいう。)
その構想は、すべての臣民を主権者のために活動する官吏とみなすことによって、博愛的専制主義と個人主義の精神とを和解させたのである。この理論は、一方で国家の大権を承認したが、他方では、国家が臣民の生活や活動に対する絶対的支配を行うことを否定した。国家の義務は単に国民の対外的安全を配慮することのみならず、、言葉の最も広い意味における彼らの全般的福祉を配慮することであった。この種の国家構想の様々な形態が、ドイツ政治・経済思想史の大半を貫く決定的特質となるのであった。法学の課題が国家権力の恒常的拡張の限界と正当性とを定義することであったのに対し、官房学は介入のための諸手段を提示するものとして、また増加し続ける国家の職務を体系化するものとして期待されたのである。
(対外的安全を配慮、ってのは、夜警国家って感じの意味かな?そうではなく、ドイツ政治・経済思想史では、国家の義務は国民の全般的福祉を配慮すること、って解釈で合ってるだろうか。法学の定義と官房学の定義の違いのところ、何となくだけど理解できたような。国家権力の恒常的拡張の限界と正当性ってのは、国家がどこまでやっていいのか、またそれは納得できるもんなのか、って話かなあ。)
官房学が法学の単なる補足から独立した学問へと移行する過程は漸進的であって、この分野における初期の多くの著述家たちもしばらくの間、官房学をそれ自体市民権を得た独立した領域として論じなかった。
(このさらに上のほうで書かれているけど、「官房学者たちには多くの仕事が求められ、このことがまた、官房学それ自体をさらに発展させる刺激となった。それまで法学の一領域であった官房学は、今や「絶対主義国家に奉仕するものとして位置づけられて、様々な行政的職務の機能に関して、官僚教育の基礎となる体系的記述をもたらすよう試みる」独立の学問として姿を現したのである。」とあるように、官房学はもともと法学からスタートしてるんだねぇ。ただ、それが独立するのに時間が結構かかったっつう話だな。)
その行政的起源から官房学への移行を担った人々はボルニツ、ベゾルト、クロック、またとりわけオッセとオープレヒトであった。これらの学者たちは政治経済学に直接携わりもしたし、政治経済学に取り組む人々に多大な影響を与えもした。
(なんかずっと気になっていたんだけど、この本に出てくる官房学者・政治経済学者は、他の経済学の本ではまず見ることがない名前ばっかりなのよね。行政学の本、ずっと読もう読もうと思って読めてないんだけど、そっちには出てくるのかな。気になるな。)
今日はここまで。これから、上記の学者について触れていきます。