最近暇を見つけては歴史資料館や遺跡に足を運んだりしていて、
過去を知れば知るほど、現在の生活というものは、現在だけで成り立つものじゃなくて、人類が誕生してから脈々と続いてきた”流れ”によって恩恵を受けたものだな~としみじみ感じています。
この大きな流れこそが人間の高度な社会生活を維持してきた本質であり、過去生きてきたすべての人類が生命をかけて紡いできた”知恵の宝”とも言える。
もしこの流れが一度断ち切れてしまえば、あっという間に原始時代に逆戻り。言葉を発明する所から再スタートしなければいけません。
途方もなく長い年月をかけて受け継いできたこの人類の知恵の流れを、一瞬で失ってしまうことも可能性としてはあるわけで、
そう考えると、
我々が普段意識してないこの当たり前の恩恵が、いかに人類にとって貴重なものだろうかと考えますね。
我々は歴史というものを教科書的な、どこか空想のようなものとして捉えがちなんだけど、全部”現実”。
「歴史を現実として捉えること」
これは非常に重要なことだと感じています。
現在を現在として見るだけなら表面的な現象でしか認識できないけど、過去を知った上で現在を見ると、現在に意味が生まれます。
本当の意味で現実を生きようとするなら、過去を知ることが最も近道じゃないかなと。
現実は過去と未来の狭間にあるスキマの空間でしかないので、
過去を知り、未来を描くことではじめて人間は”今この現実”を生きることができる。
で、話は変わるけど、
昨日も歴史博物館みたいなところに行って、古い邪馬台国時代の遺跡の出土品などを見て当時の人の想いや生活を想像したりしていました。いつもは真剣に見てるから夜は疲れてぐっすり眠れるんですけど、昨日は夜中に目が覚めてしまって、
そしたら、空間から「あはははは・・・きゃははは・・・」という2人の子供の笑い声が聞こえてて、時間を見るとちょうど4時。
すごく可愛い声ですごく楽しそうな笑い声だったんですけど、
次元が違う空間から聞こえている感じで意識を向けないと消えてしまうような儚さを伴っていました。
私自身、普段あまりこういう声は耳にしないんですけど、
1週間前にも寝てる時に夜中目が覚めて、その時は女の人が普通に会話してる声がずーっと聞こえてたんですよね。
隣の家の人の会話とかは普段から全く聞こえるものじゃないし、夜中というのもあるし、耳元で聞こえてるのに違う空間で聞こえてる感じなので普通の人の声とは違う感覚ですね。耳で聞いてる感じじゃないというか。
まぁ、悪い感じもしないし怖さもないけど、
最近歴史の出土品とか重要文化財に触れてるからか、もしかしたらそうゆうの関係あるんじゃないかなーなんて感じてます。
当時の人たちの想いというか想念みたいなものがそういう所にはまだ残ってるのかもしれないですね。