「親を超えて一人前」などと言うが、この父親にだけは一生勝てる気がしない。
昨年の12月、101歳で旅立った父。生粋の頑固者として周囲を翻弄し、プロの介護さえ撥ね付け、母のリハビリさえ邪魔してしまったその生き様は、正直、家族としては堪え難い瞬間も多かった。
しかし、彼が99歳で遺した一通の遺言状と、母の余生を支えるために築き上げた資産を目の当たりにしたとき、私は沈黙するしかなかった。
100年余りの歳月をかけて、父が完成させた「自己流の幕引き」の記録をここに記したい。
12年間、決して「許さなかった」父
父の頑固さが一段と増したのは、12年前に母が交通事故に遭ってからだった。
加害者側は保険会社を通じて精一杯の誠意を示していた。 しかし父は「これからの自分と母の生活をめちゃくちゃにした奴だ」と断じ、悪党として生涯許すことはなかった。
母は懸命なリハビリで自宅に戻ったが、要介護1。そして父も90歳を超えて同じく要介護1となった。
父は「俺が母さんの面倒を見る」と言い張った。だが実際には何もできず、それどころか母への訪問看護を「役に立たない」と怒って解約し、週3回のヘルパーも「もったいない」と週1回に減らしてしまった。
母はもっとリハビリに通いたかったはずだ。しかし父はそれを邪魔し、通わせなかった。その結果、母は歩くことが困難になった。
ケアマネと練った「誘導作戦」
具合が悪くなれば「俺はもうだめだ」と騒いで何度も救急車を呼び、病院では「異常なし」で帰ってくる。そんな日々の中、「2人でいる間は絶対に施設には行かない」と誰の説得も聞かない父。
限界を感じた私は、ケアマネさんに相談した。
「こちらの意向を汲んでコントロールできる病院はないか。そこに母を入院させれば、父も母のそばにいたいから必ずついてくるはずだ」
作戦を立てた矢先、母にパーキンソン病症候群の診断が下り、入院が決まった。父にどうするか聞くと、案の定、即答で「同じ病院へ入院する」と言った。
入院後、最初のICでは、あらかじめ先生に「101歳と88歳の2人暮らしはもう無理だとはっきり話してほしい」と根回しをした。
家族の言葉は聞かなくても、医師という「権威」の言葉なら届くかもしれない。
並行して、ケアマネさんには2人で入れる施設探しを急いでもらっていた。
離れ離れになった最期
入院は11月。病院の規則で入院期間は60日間と決まっており、私は退院後の生活をどうするか、施設入所を父が承諾するかを悩み続けていた。
しかし、入院中に母が転倒して骨折。母だけが専門病院へ転院することになった。
母と離れ、もう母の役に立てない。その喪失感からか、父は目に見えて気落ちした。病院から危篤の連絡があった後、父はまもなく101年の生涯を閉じた。
「送る側の気持ち」への違和感
父は生前、葬儀は「直葬」を希望していた。私は父の思い通りにしたかったが、姉が「家に帰りたがっていたのだから」と譲らず、私が折れた。
姉は「葬儀は亡くなった人のためではなく、送る側の気持ちの問題だ」と言った。
私はその場では反論しなかった。だが、「送る側の気持ち」という言葉は、いかにお金をかけた葬儀をさせるかという葬儀屋の宣伝文句にしか聞こえなかった。
99歳の遺言状と、「母への想い」
父が亡くなった後、遺言状が見つかった。日付は2年前、父が99歳の時のものだった。
遺言執行者に(実務が困難な)母が指定されているのを見て、弟は「手続きが面倒になる」と怒っていたが、私はそれよりも別の事実に圧倒されていた。
「99歳という年齢で、正規の手続きを踏んだ遺言状を、これほど確かな意志で自力作成できた凄さ」
正直、生粋の頑固親父で、古い価値観に縛られた父とはずっと距離を置いてきた。
しかし、一代でそれなりの財産を築き上げ、100歳を過ぎてもなお、自分の死後のことまで自分の意志で貫こうとしたその精神力には、脱帽するしかない。
今、父が遺してくれた資産のおかげで、母は北海道でもトップクラスと言われる有料老人ホームへ入所できることになった。
不器用で、理不尽で、周囲を振り回し続けた父だったが、結果として、彼は自分の力で最後まで母を守り抜く形を整えていたのだ。私には、到底真似のできない生き様だった。
せめて、あちらの世界では、穏やかに、そして周りを困らせないように。
そして何より、あんなに執着していた母の体調を、今度こそ静かに、安らかに見守っていてほしいと願っている。




