先日、温泉に浸かりながら考えていたことを文字化してみる。
小4から常時メガネ族となった僕は当然メガネを外すと世界がぼやける。
小学生の僕はメガネをかけることがかっこいいような、特別なような気がしていて、別に嫌だと思ったことはない。
ハリーポッターにはまっていたからかもしれないし、目が悪いと前の席に移動できた(僕はなんでか前の席が好きだったので「できた」である)り、水泳は度付きゴーグルを買ってもらえたり、というのが特別扱いみたいで嬉しかったのかもしれない。
とはいえ、メガネをかけていると、視界はレンズの幅にまで狭くなったり、災害時どうしようという不安があったりという欠点ももちろんある。温泉に行ったときなんか、友達や家族で行ってもまず間違いなく連れを見失ってさらにその後それっぽい人を見つけても声を聞くまで確証を得られなかったりもする。景色のいいという評判の温泉だったとしても「景色とかどうせろくに見えないから!」となってもしまう。
というくらい僕は目が悪い。
メガネをとって見る世界は、言ってみればピンボケしまくりな世界。
でも、それは言い換えれば「淡い」世界といえる。
淡い、ということは、線がなめらかで幅があるということでもある。
例えば、山をみたとき。
メガネで視力をまともな人レベルに上げたときは、ある程度木々の形を捉えて「もこもこしている」とか、「あぁあの気は一本だけ飛び抜けているなぁ」とかって表現することができる。これは当然裸眼時には全くわからないこと。
でも逆に光の濃淡や全体の色味のグラデーションといった、空気感を主に捉えることができるんです。点ではなく面で捉える、というか、線じゃなく周りの雰囲気で捉えるというか。
これはある意味、周りの空気感から「その物体の様子をイメージする」という行為であって、物体を見ていることにはなっていないのかもしれないけれど。
音楽というのはいってみれば風景や物語、心象や哲学の、音を介した二次的表現である。
バッハだろうがドビュッシーだろうが、ラフマニノフだろうがガーシュインだろうがそこは変わらないと思う。
我々は、彼らが見て聞いて感じた世界を、楽譜という記号を通して受け取る。
音楽家はその記号群をいかに3Dに拡張復元できるか、という部分でがんばっている生き物。
そしてそのときに必要になってくるのが「イメージ力」だと思う。
ただの記号をいかに組み立て解きほぐし、その裏側まで描くことができるか。
そのためには淡い世界観での視点があった方がいいなと思うのです。
淡い、つまり「解釈に幅がある」ということはその先はイメージ力での補完が必須。そもそも作曲家の見ていた風景や世界をリアルに完璧に再現するなどというのは不可能な話だし、我々音楽家が追い求めるべきはリアルではなく、聞く人にとってリアルに感じられる世界観。なんじゃないだろうか。
うーん。
文字にすると難しい話みたいになってしまった。これは自分で後から読んでもよくわからないかもしれないな笑
でも何が言いたいかというと、つまりは
温泉から裸眼で見た山の景色がとても淡くてきれいだった、というそれだけのこと。うん。