都於郡城(とのこおりじょう)は、宮崎県西都市にあった山城です。

国指定史跡。

 

 

南北朝時代に伊東氏が築いた山城です。

 

 

標高100mの台地にあり、五つの城郭で構成され

「五城郭」と呼ばれていましたが、

 

 

遠くから眺めると、舟が浮いているように見えることから

「浮舟城」とも呼ばれていました。

 

 

この時代の山城は山を削って造っただけの城で、石垣等は築かれていません。

 

 

本丸跡には伊東マンショの像が置かれています。

 

 

伊東マンショは都於郡城下で生まれ、後にキリシタンとなりました。

 

 

1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟が

ローマへ使節団(天正遣欧少年使節)を派遣しましたが、

 

 

その際、伊東マンショは主席正使を務めました。

 

 

 

なお都於郡城のあたりは、昔は高屋山と呼ばれていたようで、

 

 

都於郡城の本丸あたりには、

ホホデミノミコト(山幸彦・ホオリ)の陵墓「高屋山上陵」があったそうです。

 

 

しかし都於郡城築城の際に取り壊されてしまいました(ーー;)

現在、「伝説 高屋山上陵」の石碑が立っています。

 

(注、高屋山上陵は宮崎と鹿児島に3つの候補地があります)