九州王朝説は1970年代に古田武彦氏が自著
「失われた九州王朝」の中で語った説です。
 
 
古事記・日本書紀には、
古代の日本を代表する王朝は大和朝廷だと記されています。
 
 

宮崎出身の狭野尊が近畿地方に攻め入り

紀元前660年に奈良県の橿原で大和朝廷を興し初代神武天皇となり、

 
 
その後、神武の子孫が跡を受け継ぎ、代々日本を治めてきたと主張しています。
 
 
しかし古田武彦氏はそれは虚構であると断じます。
本当は紀元前から7世紀末までは九州に「九州王朝」があり、
九州王朝こそが古代の日本を代表する王朝だったと言います。
 
 
九州王朝は卑弥呼が女王を務めた邪馬台国の後継勢力で、
その都は太宰府にあり、支配領域は九州を中心に東日本にも及んでいました。
 
 
神武は九州王朝の傍流であり、
神武の起こした大和朝廷は九州王朝の分国に過ぎない小さな存在でした。
 
 
それが西暦663年に、九州王朝と朝鮮半島の新羅との間で戦争(白村江の戦)があり、
戦いに敗れた九州王朝は衰退して行きます。
 
新羅との戦争に参加していなかった大和朝廷は戦力を温存でき、
次第に九州王朝の支配領域を奪い九州王朝は消滅。
大和朝廷は日本を代表する王朝になります。
 
その後、大和朝廷は自国の歴史書「古事記・日本書紀」を編纂しますが、
その際、九州王朝の存在を消し去り、
日本は当初から大和朝廷が治めた国であるという事にしてしまいます。
 
「古事記・日本書紀」に記されている紀元前から7世紀末までの歴史は、
大和朝廷の歴史ではなく
九州王朝の歴史を盗んで書かれたものだと古田武彦氏は言います。
 
 
この説は当時、一般の読者からは絶大な支持を得ました。
しかし正当な歴史研究家からは批判されることが多かったようです。
その内容は次の通り。
 
・九州王朝が存在したという文献や伝承が国内外にない。
・九州王朝の存在を立証する建造物や遺跡がない。
・かりに九州王朝があったとして、
大和朝廷が九州王朝の存在を消さなくてはならない理由がない。
・九州王朝が大和朝廷を超えるような存在ならば、
その存在を無かった事にするのは不可能に近い。
・大和朝廷にも当然歴史があり、わざわざ九州王朝の歴史を盗む必要がない。
 
 
これらの指摘はもっともなのですが、国内外の文献の中には
九州王朝が存在していたほうが辻褄があうと思える箇所もあったりして、
今だ謎の多い問題です。