どうして、私たちは生きることそれ自体に、何とない不安感や渇望感を抱いているのでしょうか?
「自分はそうな気持ちを持っていない」と言う人にお訊きしますが・・、
あなたは競争心や、嫉妬心を持ったことないでしょうか?
何かを始めるとき、失敗をした場合のことを考えたことはありませんか?
基本的に、身内と他人に区別する気持ちはありませんか?
不愉快な出来事や、怒りの気持ちを翌日まで引きずることはないのですか?
他人の喜びを、100パーセントではなくとも自分の喜びとできますか?
人生において、これまで損得の計算や駆け引きをしたことはないですか?
あんな容姿になりたい、あんな金持ちになりたい・・などと思ったことはありませんか?
あなたは幸福を、幸福な人生を希求したことはないでしょうか?
・・・まだまだありますが、如何ですか。
そんな人間が現実に居るはずないではないと、と思ったのではないですか。
ところが、私たちは誰1人例外なく、このようなネガティブ性のない心で生きていた頃があるのです。
そう、誰にも天使の微笑みを投げかけていた2~3歳頃までは・・。
物心がつく4~5歳にもなりますと、身内と他人の区別をし始めます。また損得の判断ができるようになってくると、人は感性に替えて、マインドを人生行路を歩むための照明器にするようになります。
「人生行路の道筋を照らすはずのマインドが、実は様々なネガティブ的精神性を生み出す根源でもある」というパラドックスがお分かりになるでしょうか。
にもかかわらず、私たちはマインドが生み出したこの根拠なない不安感、渇望感、不満足感・・を払拭しようとして幸福~幸福な人生を希求し続けるのです。
幸福をもたらす(と信じている)金、権力、地位、名誉、容姿、物財・・を手にすることが人生と確信して毎日を生きているのです。
連れて、こうした物質的価値を獲得することで、これらのネガティブ性を一層できるという信念の元、他と競い合います。
より多く、価値を手にしようとして・・。
それがために人生行路において様々な軋轢を生むことになります。
場合によってはトラウマにさえなりかねないような苦悩と、苦痛の諸現象に繰り返し遭遇するのだ、ということに気が付かないまま・・。
兎に角、それらの物質的価値を手にすることさえできれば・・、また幸福にさえなれれば・・、苦悩、不安、不満足感から脱出できるはず・・と、その生きざまを変える気になどなりません。
しかしながら、それで実際に幸福な人生を手にした人間が世界中に1人でも居るのかとなると、NOと言わざるを得ません。
確かに、大金持ちや権力者、名スポーツ選手や下術化、また知識人・・こうした人は存在していますが・・。
こうした背景ゆえでしょうか。
「あなたは幸福になれる」 「あなたは幸福になるために生まれた」 ・・と銘打った出版物が途切れることはありませんし、「幸福になる方法を教えます」と謳ったセミナーも相も変わらず繁盛しているようです。
果ては、幸福というご利益を求めて右往左往する人々を取り込まんとして霊感や、超能力を売り物にした団体や、宗教もどきを立ち上げようとする輩も後を絶ちません。
こうしたノウハウを勉強したり、信仰(?)に励むことで、幸福な人生を実現した人間は居るのかと言えば、これまた耳にしたことさえないのが現実であるにもかかわらず・・。
はっきりしていることは、セミナーを受講した人たち、また教団に寄進をした人たちの懐から相当額の金額が消えてしまい、その分、主催者や創始者の懐は潤ったらしいということくらいでしょう。
世界でも現代の日本人くらい幸福症候群に陥っている国民はないらしいのですが、こういう社会現象を見ますと「成る程」と肯かざるを得ません。
アフガニスタンの子供たちの夢は「明日も生きていたい」というものだと聞いたことがありますが、世界中にある多くの紛争地の人々から見たら、日本人位恵まれた国民は居ないと思うのではないでしょうか。
さて、1つお訊きします。
そもそも「あなたにとっての幸福とは何ですか?どういうものなのですか?」
以前、講師として呼ばれたセミナー(無料)で、出席者のご婦人方から「幸福な人生について話してほしい」と要望された際に、先ずこの質問をさせていただいたのですが、30人くらいのご婦人方、誰1人即答された方はいらっしゃいませんでした。
5分くらい経った後、60歳代くらいの裕福そうな1人の奥様が「やはりお金かしら・・」と仰いました。
他の奥様方もうなずかれています。
私は、「この中で自分は本当に貧乏だ、という方はいらっしゃいますか」と重ねて訊きました。
さらに続けて、「あなたの知り合いでお金持ちの方がいらっしゃると思いますが、その中であの人は幸福な人生を確立されていると言える方はいらっしゃいますか」と訊きました。
面白いことに、1人として手を挙げられた方は居なかったのです。
皆様何となくではあっても、どうもお金のある無しと、幸福な人生とは関係ないらしいということには気が付かれたようでした。
私は、「お金を持っていることで最悪の事態を回避できる場合があるかも知れないが、お金の多寡と幸福な人生とは全く関係ないことです。但し、だからと言って、お金を稼ぐことを否定している訳ではありませんよ」と申し上げたことでした。
奇妙なことに、この方たちに限らず自分にとっての幸福像が明確でないまま、幸福を願うという矛盾した精神性に何方も気が付いてはいないらしいのです。
しかし、このことを笑える人は居ないのが、現実でもあります。
因みに、あなたはどうですか?
これこそが自分の願う幸福だ、あるいは幸福な人生だと明確にイメージできますか。
もし、「お金、結婚、出世、マイホーム、マイカー、賞、子供の一流大学合格・・」こうした物質的価値を手にすることが、自分の幸福だと考えているなら、それは全く違うと断言しておきます。
アラン、ラッセル、ヒルティーなど幸福論で知られている世界的な哲学者の著書を読んでも、正直なところ「本当にこの本ん読んだ人は、幸福観を定義づけることができるのだろうか」という思いしか湧いて来ません。
結局のところ、①生活するのに十分な経済力、②やりがいのある仕事に従事していること、③健康、④健全な家庭、⑤友人など良好な人間関係・・という例の「幸福のための5つの条件」に生きつくことになるのです。
因みに、それらを願った結果、手にした人は、これまで世界中に何千万人と居るのではないでしょうか。
しかし、それで幸福な人生を確立し得たという人の話は聞いたことがない、というのはどういう訳でしょう。
実は、私の知人にも居ます。
一生否、10人分の人生でも使いきれないくらいの金を持ち、家族関係は勿論、健康面も問題ない状況にあるにもかかわらず、「もっと、もっと稼ぎたい」と権謀術数に頭を使いながら頑張っているのです。
おかしくないですか。敢えてわかりやすく表現しますが、欲しがるということは、貧しさの裏返しなのではないのでしょうか。
貧しい人が幸福であるはずないでしょう。
本当に幸福な人は全てを人に与えることができるはずなのです。
ネガティブ性などあり得ないはずです。
精神は豊かさに満ち溢れているのですから・・。
因みに、願って止まなかったメダルはそこにあるし、マイホームもマイカーも購入したときのまま存在しているし、出世も合格も果たした、貯金も十分できた・・、なのに何故あの瞬間の幸福感は消えてしまったのでしょうか。
せいぜい数か月、否数週間、場合によっては数日間の幸福でしかなかったのです。
今や、新たなる不安感、不満足感、焦燥感に苛まれているというのはどういうことなのでしょう。
それらは不変の幸福ではなかったということに他なりません。
私たちが考えている、何かの価値を手にすることで実現できる幸福とは、それが如何に大きなものであっても一時的、限定的なものでしかないことがお分かりになると思います。
どういうことでしょう。
欲望は精神性にネガティブな作用をします。
つまり、マインドを不幸な気持ちにさせるのです。
ところが、その欲望の対象を手にした瞬間、マインドの中から欲望が消滅することになります。つまり、ネガティブ性が消え去るわけです。
即ち、欲望の消えたマインドをマインドが感じる時、マインドに幸福感が湧き上がってくるのです。
これが私たちが求めている幸福の正体なのです。
しかし、マインドはすぐに次の対象に欲望を感じます。
その瞬間、幸福感は消滅し、新たなる不幸感に取って代わられるのです。
乳幼児、が泣いて欲しがったおもちゃを手にした瞬間投げ捨てて、次のものを手にしようとするということを繰り返すのは、この瞬間の幸福感を味わいたいという本能故のものなのかと思うことがあります。
私たちが求めている幸福は、こうした限定的なものではないはずです。
不変不動の(自分の)幸福なのではないのでしょうか。
如何でしょう。
真の幸福観へアプローチするためには、ここまで申し上げてきた事柄を先ず理解する必要があるらしいということがお分かりいただけたでしょうか。
さて、自分の幸福観を確立するとはどういうことでしょう。
『私の幸福』というからには、少なくとも『私』観というものが確立されていなければなりません。
実際のところ、イメージしている自分、つまり『私』という存在について、私たちはどのくらい解っているものなのでしょうか。
願って止まない幸福は、自分以外の誰のためのものでないし、また世間が評価するようなものでもないはずなのですが、原点である私が明確でないまま、つまり何となく・・という人が殆どであるということに気が付かれたのではないでしょうか。
心の幸福は、私だけににとっての価値であるはずなのです。
その『私』が明確でまま、どうして私の幸福観を確立することができるでしょう。
例えば、あなたが新築した家の内装を考えようとしても、家の中のことを十分承知していなければできるはずないでしょう。
どうも、この世に生きている人の殆どは、自分では自分のことを解っているつもりでいるものの、その実、何も解っていないらしいのです。
このことは幸福観だけでなく、人生観、世界観などすべての分野に渡って言えることでもあるということはお分かりになると思います。
つまり、昨日列記した諸々の「何故」に対する解答を得るにも、その前に『私』という存在を明確に解き明かすことが、不可欠になるということなのです。
謂わば、『“私”を知る度合(深さ)に比例して、“全て”を洞察できるようになる』ということに他なりません。
次回以降、“私”を知る旅へのガイドを務めさせていただきます。
事務所移転のため、しばらく休ませていただきます。
乞うご期待
