兄弟喧嘩とは、まさに死闘である。幼少期、言葉を交わすことを知らない彼らは、身体に訴えかける。これが人生で生まれて初めて行使する暴力という力である。「暴力」という言葉から乱暴な印象を受ける、本来は行使してはいけない力だ。しかし、この時にやることは服を引っ張る、皮膚をつねる、ひっぱたく等の子供ができる程度の行為である。よって、その当時は喧嘩として処理される。
喧嘩は続く。やられた者はやり返し、そしてまたやり返す。両者の応酬はとどまることを知らない。理性を持たない獣であれば、この行為は相手があきらめるもしくは、最悪の場合相手が力尽きるまで行われる。暴力の危険性を知らない彼らは、理性を持たない獣に近い存在であるかもしれない。単純な未来、”例えば鋭利なモノを使えば重症になる” しか予測できないため、ふとした行為が一大事を引き起こす可能性がある。
それに比べ、成熟した大人は暴力という身体を対象とした力を使わない。それは、ちょっとした外傷が、致命的な傷害につながるかもしれない、という発展した可能性を考慮できるからだ。もしくは、暴力という行為によって、人生を左右する社会的な罪に問われたくないという自己保身のためなのかもしれない。少なくとも、法律的に、社会的に暴力が良くないものということを理解しているのだ。。
喧嘩が初めての彼らは、それを理解できない。だから、彼らを悟し、止める者が必要なのだ...。