クラウチングスタートのポーズを取る虚無僧の横で笑う君の顔をボクは忘れないがテーマの刺青 | 父さん、ネジ食ってますか?

クラウチングスタートのポーズを取る虚無僧の横で笑う君の顔をボクは忘れないがテーマの刺青

変わらない引きこもり暮らしが続いている日々ですが、陽が落ちて辺りが寝静まるころには外から虫の鳴く声が聞こえてきます。気がつけば今年もあと二ヶ月と少しほどになってしまいました。

歳を重ねるごとに時間の流れが速くなるというような事を時々耳にしますが、自分がそれを実感し始めたのは二十歳を過ぎてからだと思います。おそらくそれはボクだけではなく多くの人がそうなのでしょう。

十代の頃は一年一年に年齢を実感させる、やらなければならないイベントが数多く存在しますが社会に出た途端それらのほとんどは消失し、それ以後は自分より先に社会へ出て行った先輩方たちの元に列席し引退するまでの間、ただひたすら同じ毎日を繰り返していくだけなのですからそう感じるようになるのも当然のものといえましょう。十代の頃とは違い二十歳以降はその年齢でなければいることが出来ない立場というものはありません。あるのは若いか老いているかの漠然とした二つだけです。

幼稚園(保育園)、小学生・1・2・3・4・5・6年、中学生・1・2・3年、高校生1・2・3年といったようにまるで階段を上るかの如く一つ一つ目に見える形で歳を取るのとは違い、ただ20代から30代へ、30代から40代へとまるでグラデーションのように変わっていくだけのものですから、自分自身で注意深く区切りをつけていかなければ十代の時のような年月を過ごすことは出来ないでしょう。

いや、それでもまだまだ無理かもしれません。何より大きいのは十代の時には自由が存在しないという点です。

社会から学校へ通う事を強制され、学生という身分でいることを誰も疑いを持つことはないほど認められています。

確かに二十歳を過ぎてからでもちゃんと学びたい、学びたかったという人たちが高校や大学に入学するということはさほど珍しいことではありません。学ぶという事そのものに老若男女といった区別は存在しないのですから。ですが、学生という肩書きに付随するものは明確にそれらを分け隔てます。ボクは大学に通ったこともない無学な人間ですので大学のことはよく知りませんが、高校で考えるなら文化祭や体育祭といったものを一度社会に出て良し悪し両方の経験を積んだ人間が、初めてその時を迎えた人間と同様に味わうことができるとは到底思えません。

少し前にどこぞの芸能人が大人だって文化祭をしてもいいじゃないというのを掲げ、どこかの学校だかを借りて文化祭を行おうとしているといったものをテレビのニュースで見ました。そういうこまっしゃくれた事をするのは大体演劇関係の人間なわけですが(偏見)、それもやはりその手の人が主導となっていました。

彼らの行為はちょっとだけ見るなら「青春よ今一度」といった感じのいつまでも少年らしさを忘れないかっこいい大人と思えたりしますが、一歩離れて見れば若い頃の思い出と時の流れにすがりつき、必死で今の自分を否定しようとしている侘しい背中が見えてしまいます。おそらく彼らとしては若かりし頃の躍動感といったものを思い起こさせ、昔では力及ばず出来なかった事を今の自分で成し遂げようといったものなのでしょう。それ自体には何の異論もありません、ただそれをするために選んだものが文化祭、しかも普通に文化祭というのがいけません。彼らはいったい何を発表したかったのでしょうか。現役の学生ならば文化祭は自分達の何かを知らしめるための数少ない発表の場として機能することが出来ます。誰もそれを意識する事などありませんが、文化祭というのはただガヤガヤと過ごすだけのお祭りではないわけです。学力ならばセンター試験といったものが存在しますが、文化祭というのは学力ではない何かを学生達が無理やり形にして表に出す場所なのです。その無理やりな力があるからこその輝きであり、躍動感であるわけです。形作る事を覚えてしまった大人がやってもそれは無意味なのです。ですがそれすらも合わせての表現活動として彼らが行っているというのならボクは彼らに完敗です。

しかしボクは文化祭なんかを開かずともいつだって少年時代です。

何故ならこんなに大真面目な文を書いている全裸なのですから。いったいいつから全裸なのかもわからないくらいです。

全裸と少年との間には何の因果関係も存在しませんが、それについて触れることは許されません。

過ぎ去りしあの日を生きていた私たちは触れてはならないものに胸をときめかせていたのですから。

このブログは誰も見ていません。

どこかしかの業者によるトラックバックがありますが、これは閲覧者としてカウントできるような存在ではありません。

ですからこのブログは誰の目に止まっていないものなわけです。

誰も見ていないのなら自分の考えを世に発信するというブログ本来の機能は活動していないことになります。

誰にも読まれない文章、しかも何の資料にもなることがないとくればボクのこの文章はブログでもなんでもない、いわばネットデブリなのでしょう。

ただし、誰も見ていないなら見ていないで使い道はあるのです。誰かに読まれることが前提となっている文章というのは編集やライターといった文筆を生業とする人以外ではそうそう書く機会はありません。

完全に無いわけではないですが、企画書やレポートといったものはあくまで用件を伝えることが目的ですし、必要ない限り自分の感情や感想といったものはなるべく省くように書きます。何よりそれらはその立場にある者ならば誰が書いても構わないものです。

ですが自分でなければならない文章となるとそうそう機会はありません。

ならばその文章をここに書けばいい。人に読ませることが前提の自分でなければならない文章というのを訓練するには絶好の場所ではないでしょうか。それが何に役立つのかなんてのはどうでもいいのです。本来ならとても人様に見せられるようなものではないけれども、誰も見ていないならば恥ずかしがる必要などありはしません。。

こいつは言ってしまえば一人カラオケ。それが役立つことがあるかはわからないけれど、カラオケでの歌い方は確実に身に付けられる。このブログはコミュニケーション不全となっているボクが行う一人カラオケなのです。

ですからちゃんとした閲覧者なんかが万が一出来てしまったらすぐにでも止めるでしょう。

でもそれはそれ。そうなるまで出来る限り書き続けるわけです。無論全裸で。