以下の文章は阿波国神社研究会 会長 中川洋作氏作成を引用

◎牟岐八幡神社について(1)
はじめに
令和4年10月2日、榊宮司より祭礼見学のお招きを頂き参加させてもらった。
当社には何度かお参りさせてもらっているが、当日は貴重な特殊神事を拝見できた。
宮司から頂いた神社資料を基に調査考察し得たことを報告する。
1.神社概要
①神社名 八幡神社(神社誌・改訂神社誌・牟岐村神社明細帳・郷社八幡神社略記)
     正八幡宮(寛保改神社帳)
     八幡祠(阿波志)
     正八幡大菩薩(満徳寺文書)
②鎮座地 海部郡牟岐町大字牟岐浦字八幡山1(神社誌・改訂神社誌)
     徳島県管下阿波国海部郡牟岐村大字牟岐浦村字八幡山根(牟岐村神社明細帳)
③祭神  誉田別命・気長足姫命・玉依姫命(神社誌・改訂神社誌・牟岐村神社明細帳・郷社八幡神社略記)
玉依姫命については郷社八幡神社略記の当該部分を写真添付した。
④由緒  「上古ヨリ鎮座ノ所時ノ地頭姓名不詳奈良ノ人タルヲ以テ承久二年奈良八幡宮ヲ勧請中古地頭兵庫頭藤原虎房元亀二年九月四日再建」(牟岐村神社明細帳)
つまり、上古より鎮座していたのは玉依姫命ではないかとする説もあるようだ。
私見では、奈良八幡宮は時代背景を考慮すると手向山八幡宮を当てるのが妥当かと考える。
しかしながら、他にも候補社があり未だ断定できずにいる。
2.創建
上記「概要」由緒のとおり、『上古ヨリ鎮座ノ所』であるがその時期については史料が残っていないので不詳とする。
『承久二年八幡宮勧請』については、神社誌・改訂神社誌・牟岐村神社明細帳・郷社八幡神社略記には同様の記事が記載されており同一史料に因るものである。
後記社宝に挙げる「牟岐八幡宮宝永地震扁額」もこの記事を裏付けるものの一つである。
承久二年(じょうきゅう)庚辰1220年(皇紀1880年)当時の我国の状況について少し書いておく。
前年承久元年1219年1月、鎌倉幕府将軍源実朝が公暁に暗殺された、将軍継嗣問題が起こる。
承久三年1221年6月承久の乱が起こり、後鳥羽上皇が倒幕の兵をあげるも2ヶ月で鎮圧されている。
乱の翌年には東国人日蓮が生まれているが「王法既に尽きぬ」「先代未聞の下剋上」として北條得宗家こそが真の日本国主(国王)であると考えていたようだ。
院政から武家政権の確立という画期の時代であった。10月に入り『鎌倉殿の13人』もこの大乱に怒涛の如く流れ込んでいく。
時代を考慮すると、阿波国に於ける八幡神信仰の拡がりを捉える上で参考になる創建である。

◎牟岐八幡神社について(2)
3.社伝
2.創建と多くの部分が被るが当社に残る伝承について掘り下げてみる。
①『上古ヨリ鎮座』
八幡神勧請以前から既に当社は鎮座しており永年祭祀を続けていた。
現宮司まで残る口伝によると「漂着神」である。
「ある時、津波が起こり牟岐の浜辺に神が流れ付いた。住民たちはその貴いお姿を見て柄杓で掬い上げた。以後その神を守り祀り続けている。」
その神は何方かは現在では判然としない。
それは、八幡神社として既に800年を超えて鎮座しその間に起こった災害・戦乱等により殆どの史料を消失したからである。
徳島県の場合、山地が多い所為で河川による漂着神伝承を多数の神社で確認することができる。
ただ、当社の場合は海洋性漂着神である。
民俗学的には、環太平洋の潮流による漂着神信仰は各国に残っている、「マレビト」である。
僕は狭義に捉えて、海の民「海神族・海人族」の跳梁跋扈を因として考えたい。
『柄杓で掬い上げた』という故事については、後述する祭祀中にもその名残が見られる。
②『承久二年奈良八幡宮勧請』
「神社誌・改訂神社誌・牟岐村神社明細帳・郷社八幡神社略記には同様の記事が記載されており同一史料に因るものである。」
と先述したが、現在のところ否定すべき点は見当たらない。
ただ、当社でも奈良八幡宮が何処であるかは不明である。
僭越ながら該当社を探す試みを行った。
奈良県にも八幡宮・八幡神社は数多いが、鎌倉時代前期に阿波牟岐に勧請する元宮となり得る神社は何処だろう。
先ずは目ぼしい3社を見つけた、手向山八幡宮・元石清水八幡宮・西大寺八幡神社である、奈良だけに全て寺の鎮守社であり宇佐八幡宮からの勧請社である。

◎手向山八幡宮
鎮座地 奈良市雑司町434
祭神  応神天皇・姫大神・仲哀天皇・神功皇后・仁徳天皇
創建  天平勝宝元年(749)
天平勝宝元年(749年)東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の鎮守神として勧請された。
治承4年(1180年)の平重衡による南都焼討で焼失する。
文治4年(1188年)に東大寺大勧進職の重源によって仮殿が建てられ、建久8年(1197年)に社殿が再建される。その後、建長2年(1250年)に北条時頼によって境内地が東大寺千手院の跡地である現在地に移された。
(Wiki.より)
史料の豊富なこの社の歴史を視ると、社殿が再建されて23年後承久2年に勧請しても違和感は無い。
◎元石清水八幡宮(大安寺八幡宮・郷社石清水八幡社・辰市八幡宮)
鎮座地 奈良市東九条町字宮ノ森1316
祭神  応神天皇・神功皇后・仲哀天皇
創建  伝:貞観元年(859)
大同2年(807年)8月7日に大安寺東室第7院の石清水房に鎮座したのが起源である。
後に社を造営して遷座し、「石清水八幡宮」と号して大安寺の鎮守神とされた。
しかし、貞観元年(859年)に神託によって山城国男山へ遷座したために、平城天皇の勅命により改めてその跡に祀ったのが創祀であるとする。
天永4年(1113年)4月22日に南都七大寺が共謀してそれぞれの鎮守神の神輿を舁いで上洛、嗷訴に及ぶに際しては、興福寺の衆徒が男山八幡宮に対して元宮である大安寺八幡に従い神宝を具して参加するよう要求したところ、男山八幡宮は逆に男山から勧請したのが大安寺八幡宮であると反論し、従って嗷訴への参加を乞われる謂われは無いとこれを拒否している。
(以上Wiki.より)
本社騒動は昔からあったようだ。
この社には鎌倉時代の史料が乏しく勧請元としての判断はしづらい。
◎西大寺八幡神社
鎮座地 奈良市西大寺芝町2丁目10
祭神  誉田別命・気長足姫命・玉依姫命
創建  不詳 伝:奈良時代に宇佐八幡宮から勧請
鎌倉時代の延応元年(1239年)1月16日、西大寺・中興の祖である叡尊上人(興正菩薩叡尊上人)が、参詣された人々に社頭で湯茶の大振る舞いをおこなったのが、今日の西大寺に伝わる大茶盛の起源といわれています。
(神社Hp.より)
上記2社より規模の小さいこの社を候補としたのは牟岐八幡神社と祭神が同一であることに因る、この点は大きい。
西大寺八幡神社に勧請記録が残っていれば完全解決なのだが。
一応、日本三大八幡宮に必ず入る宇佐八幡宮・石清水八幡宮の祭神を挙げる(残り1宮は筥崎宮か鶴岡八幡宮が入る。)。
◎宇佐神宮
祭神 應神天皇・比賣大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)・神功皇后
◎石清水八幡宮
祭神 八幡三所大神(八幡大神)
誉田別命・比咩大神(多紀理毘売命・市寸島姫命・多岐津比売命)・息長帯姫命
以上のとおりであるが、宇佐神宮の比賣大神については古来より諸説がある。「玄松子の記憶」から引用する。
一、玉依姫説。特定の神名ではなく、神を祀るシャーマン的存在。
二、三女神説。宗像の神。神宮の案内はこれ。
三、応神天皇の伯母神。神功皇后の妹・豐姫(あるいは若多良志姫)、肥前国一宮の河上大明神。
四、姨神。三と同じだが応神天皇の伯母であり、后であり、玉依姫でもある。
五、弟日売。応神天皇の妃。
六、仲姫命。応神天皇の皇后。
七、下照姫。
八、比売語曽神。
九、姫御神。応神天皇の皇女。
十、菟狭津媛。
十一、海神豊玉姫説。豊玉彦の娘。彦火火出見尊の妻。
此処まで見てきて、祭神が全く同一であるというのは非常に重要である。
現時点で西大寺八幡神社押しにならざるを得ない。
(つづく)