そういえば『明治時代の100年?』の振り返り投稿の提案があったので…。



『明治時代の生活とか』の記事を上げた後に『1億人の昭和史 明治 上・中・下』を読み返してみたら“明治時代の最上流階級”として紹介されてたので、なんとなく記事にしてみました?




明治維新から新政府中枢となった薩摩藩主島津家は斉彬から忠義に引き継がれ、公爵に叙せられた。
忠義には13人の子女があり、8人の姫は山階宮妃(3女)、久邇宮妃(7女)をはじめ、徳川家など皇族・華族に嫁した。


長女・清子(22歳) 越前福岡・黒田家の長成夫人


左から知子(17歳)、充子(19歳)、常子(18歳)


四女・知子(明治8年生まれ) 田安徳川家、達孝に嫁す


山階宮常子 結婚当初のものと思われる 明治38年頃


9女・正子 徳川宗家・家正夫人


島津家の男子は5人 端午の節句を祝い、鹿児島の磯邸にひるがえる5基の鯉のぼり

磯邸は海に面し、桜島を臨む島津家別邸


忠重(明治19年生まれ)は、明治30年12月に父・忠義が死去し、30代当主に

学習院・海兵から海軍軍人となった


島津忠重夫人・伊楚子(徳大寺実則公爵の5女)


忠重の幼名は秀丸 丁髷に袴で靴をはいた(明治28年 磯邸の庭で)


明治28年11月1日 秀丸は元服して忠重と名乗る 加冠は父・忠義

没落の士族には廃れたこの慣習も島津家では伝統に従って行われた 上は髪を着る前 下は加冠後



6男・忠広 上は学習院生から選ばれて正月に宮中拝賀の皇族妃たちのマント・ド・クールの裾を持つ衣装で 下は磯邸で 4歳




磯邸で 5男・冨次郎 元服後は忠備


普段着姿の一家 前列左から康久(6歳)久範(7歳)忠広(9歳)忠備(10歳)忠重(15歳)

後列左から為子(4歳)正子(16歳)俔子(22歳)常子(27歳)松平充子(28歳)寿満子(側室 忠重ら8人の母) 明治32年夏 鎌倉の三橋別荘で



ということで、やっぱり明治時代はどんな上流階級の名家でも着物が普通だったんだな〜と。

現代では着物がお好きな方しかお召しになりませんものね。



当時は洋服に否定的な人も多かったみたいですし。

そう考えると洋服を着るっていうのは一大改革だったワケですね。


1904(明治37)年の銀座通り


当時の日本で一番オシャレで流行の最先端をいってるであろうと思われる銀座通りでもこんな感じですから。

そう考えると明治は遠い時代なんだな〜と思ってしまいます。



肉食の解禁も当時は一大事だったんでしょうね。

すき焼きとかも当時は画期的だったんでしょうね〜。



しらたきとネギと

お豆腐 白菜

肉は入ってないわ

私の人生

っていう歌詞がフッと頭に浮かんでしまいました。