ホントは昨日、記事を上げようと思っていたのに今日になってしまいました。

そういえば『明治時代の生活は』って記事も1年前になるんですね〜。



それから“明治”って2番目に長く使われた元号だったんですね!

それもなんだか感慨深い…。

明治という時代を改めて考えてみました。



明治時代は現代の礎が築かれた時代です。

初めて電灯が点いたのも鉄道が敷かれたのも明治時代。

1日が24時間、1年が365日になったのも明治時代。

子どもが小学校に通うようになり、大人が新聞を読むようになったのも明治時代。

色々と挙げだすとキリがありません。





でも1番の変化は洋服を着るようになったことでしょう。

軍服に洋服が制定されたり、明治時代の洋服はあくまでフォーマル・ウェアとしての装いだったようですけど。






いわゆる“宮廷服”は特別な人が着る服で庶民には縁がなかったワケですけど、今も残されている当時の大礼服なんかを見ると、明治時代の人たちの意気込みが伝わってくるような気がします。



でも自前でこんな高価な服を用意しなきゃいけないのは大変だな〜と思いますね。

なかなか出世するのも良いことばかりじゃないですね💦


男子の場合は大礼服以外に通常礼服が燕尾服、通常服がフロックコートと定められていたそうですが、女子宮廷服の方が細分化されてるんですよね。なんだかそれが意外な感じ。

女子宮廷服は5種類を場合に応じて使い分けていたそうです。



大礼服(マント・ド・クール(仏: manteau de cour))


腰、或いは肩から長く垂れ下がるトレーン(引き裾)を伴うことが特徴である。

ドレスは襟開きが大きく、袖無しか短い袖を付ける。主に新年拝賀に着用し、この場合、皇后と皇族妃のトレーンは御裳捧持者と呼ばれる少年によって捧持された。

御裳捧持者は学習院中等科の生徒が務め、皇后のトレーンは4名、皇族妃のトレーンは2名によって捧持された。

また、大礼服は皇族の結婚の際の朝見の儀において皇后と皇族妃が着用した。




中礼服(ローブ・デコルテ(仏:robe décolletée))


大礼服のドレスと同様で、襟開きが大きく、袖無しか短い袖を付ける。

夜会・晩餐会用であり、明治22年の憲法発布式典、明治27年の大婚25周年記念祝典にも着用された。


小礼服(ローブ・ミーデコルテ(仏: robe mi-décolletée))


襟開きがそれほど大きくはなく、肘ほどの長さの袖が付く。

中礼服と同様に夜会・晩餐会用とされる。



通常礼服(ローブ・モンタント(仏: robe montante))

竪襟が付いた長袖のドレスで、後裾が長い。
昼の陪食や皇后陛下御誕辰の際に着用した。


大礼服・中礼服・小礼服・通常礼服の他に通常服(ヴィジティング・ドレス Visiting dress)があったことが知られている。
竪襟が付いた長袖のドレスであることは通常礼服と同じであるが、後裾は通常礼服ほど長くない。
通常服は観桜会、観菊会などに着用した。


ヴィジティング・ドレス 着用者不明 明治30年代



男子宮廷服は生地や文様が詳細に決められていたのに引き換え、女子宮廷服は襟の形や袖の長さが決められていた以外には生地やデザインは西洋の流行を取り入れて自由に作ることが出来たというのは魅力的かもしれません。



鳳凰と立涌文様のヴィジティング・ドレスなんかが良い例ですね。公家装束のデザインを巧くアレンジしていて。


伏見宮貞愛親王妃利子女王殿下


小松宮彰仁親王妃頼子殿下


そして見ていて楽しいのは、やはり女子宮廷服だな〜と改めて思う次第です。


久邇宮朝融王


左から 悦子、加藤高明、春路夫人


でも、どんな高貴な人たちでも普段は着物で暮らしていたそうです。そんな明治時代。


後列左から 

清棲家教伯爵 伏見宮貞愛親王 小松宮彰仁親王 閑院宮載仁親王

前列左から 

華頂宮郁子妃 北白川宮富子妃 山階宮晃親王 小松宮頼子妃 閑院宮智恵子妃




それにしても、明治時代の庶民の生活と身分の高い名家・良家の暮らしとはあまりにも違いすぎますよね。



住んでる家も違いすぎて驚きます。




でも貧しいながらも生きやすそうな空気感が庶民の暮らしにはあるような気もします?



生活水準は上がったけど、ホントにそれだけでイイのかなと思ってしまいました。