前からブログネタにしようと思いながら出来てなかったコチラの話。

摂政宮と関東大震災  宮内庁の記録から .jpg

1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北部を
震源とするマグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲いました。

当時は明確な耐震基準も無く、下町には江戸時代以来の木造家屋も
密集していました。そして地震で多くの建物が倒壊。更に昼食時と
重なった為に炊事に由来する火災が発生。3日間に亘って、辺りは
火の海となり、死者・行方不明者の内9割は火災による焼死でした。

なかでも、本所区(墨田区南半部)の陸軍被服廠跡の約6.6万㎡の
空き地では避難してきた江東区の3万人以上の人々が、火災旋風で
飛び火した家財道具のために焼死する悲惨な事態になったのでした。

市民のことばかりが話題になりがちですが、関東大震災発災の際の
皇室のご動静はどうだったのか。ふと、そんなことが気になって…。

震災発生の1923(大正12)年9月1日、大正天皇は御病気で
日光の御用邸で静養中で在らせられました。代わりに東京に居られ、
ご政務にあたられたのが22歳の若き摂政宮こと後の昭和天皇です。

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摂政 迪宮 裕仁親王

震災発生時には明治宮殿の表御座所で執務中だった摂政宮は安全上、
一旦、正殿の中庭に移動されて揺れが収まるのを待たれたそうです。

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明治宮殿 正殿 中庭

その後、午後3時30分過ぎに赤坂離宮へ避難されたとのことです。
摂政宮は震災当日は一睡もされずに徳川侍従次長の報告を受けます。

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そして翌2日には御内帑金一千万円を下賜されます。今の十億円を
超えると云われる金額です。翌日には山本権兵衛首相を赤坂離宮に
召され、その一千万円の趣旨について伝えられたそうです。そして
4日には侍従武官を横浜・横須賀・東京市内に差遣されて、慰問に
あたらせていらっしゃいます。更に7日になると全国の御料林から
材木を伐採し、急場の住宅建設用に下賜されます。更に各宮家では
避難民のために宮邸の庭園を開放する等の対応をとられたそうです。

大富豪の大部分が門戸を固く閉ざし、一歩も入れない者が多いため、
当時、一般庶民からは怨嗟の声が非常に高かったと云われています。

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大正天皇 在位1912年~1926年

12日、震災から2週間と経たずして、大正天皇の御名に摂政宮が
副署された詔勅が出されました。詔勅では、「自分に天子としての
徳が無いから、このような震災が起きるのだ」との趣旨が述べられ、
また「非常事態においては平時の法規に拘泥せず、また機会を損ね
前後を誤るという愚を犯さず」という内容が書かれていたのでした。

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関東大震災直後の横浜を視察する摂政宮(後の昭和天皇)

15日には摂政宮、自らが市内の視察を開始していらっしゃいます。

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横浜の被災状況を視察する摂政宮=1923(大正13)年9月15日

総じて「機会を損ねて前後を誤るという愚を犯さず」のお言葉通り、
正に電光石火の如き対応だな、とつくづく感心してしまいました!

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愛馬「山吹」で東京市内を視察する摂政宮=1923(大正13)年9月15日

大正天皇のお后である貞明皇后も同じ日に被災地を視察されました。

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日本赤十字病院で罹災者を慰問する貞明皇后=1923(大正13)年9月15日

当時、皇后や皇太子が直々に被災地を視察するのは異例のことです。

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被災地の状況を視察される貞明皇后=1923(大正13)年9月15日

そして、この展覧会で初公開されたお写真が随分話題になりました。

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上野へ罹災者を見舞った貞明皇后=1923(大正13)年9月29日

上野で罹災者数名を見舞っている貞明皇后のお姿が捉えられてます。
写真には、宮内省巡回救療班の自動車も一緒に写し出されています。

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宮内省巡回救療班の集合写真

震災後、宮内省は被災地を巡って診察・治療することを目的とした
巡回救療班を組織しました。巡回救療班は、小児・婦人の罹災者を
心配される貞明皇后の思し召しから組織されたものなのだそうです。

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宮内省と云えば、佐藤健さんが主演したドラマ「天皇の料理番」で
宮内省が罹災者に炊き出しをする様子が描かれた場面がありました。

『完本 皇居前広場』(原武史/文藝春秋)によると、皇太子殿下
(のちの昭和天皇)の迅速な判断により、震災当日の午後7時には
平川門が開かれた、と書かれています。宮内省は地震が起きてすぐ
宮内省の庁舎の玄関前に炊き出し所を設けて、その日の夕方までに
2230個の竹皮包弁当を調整。皇居が避難所として開放されると
飲料水や乾麺、米類を配布したそうです。職員の人数も炊事用具も
少なく、一時中断しながらも機材を集めて、9月末まで炊き出しを
続けたと、いうことだそうです。実に素晴らしいエピソードですね。

阪神淡路大震災で自衛隊の派遣を躊躇った村山富市元首相をはじめ、
4年前の東日本大震災を自らのパフォーマンスの場として利用した
菅直人元首相たちと比べるのは畏れ多いですが、天と地ほどの差が。

「防災の日、160万人が訓練参加」

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東京都江東区の臨海地区に停泊した海上自衛隊の
護衛艦「いずも」で行われた救護訓練=9月1日午前

防災の日、政府が首都直下地震想定の総合訓練。
各地でも市民らが備え確認、160万人が訓練参加。

“防災の日”の今日、ふとそんな思いに囚われてしまいました。