一昨年ブログにアップした阪神淡路大震災当時の日記です。
少し長いですが、目を通して頂ければと思います。
【1995年1月21日】
朝からドライシャンプーで髪を洗い、今日は梅田に出てサウナにでも行こうかと思いつつ、念のためVTR、CDを返すためJRへ向かう。
国道43号線、国道2号線は西に向かう車、自転車、人の波、波、波。
市街地の悲惨な状況を再度実感した。
結局VTR屋は休業。(当たり前ですね)
Tさん(仕事のお客さん)のマンションが無事なのを確認し、足は市役所に向かってしまった。
南館の入り口近くにボランティア募集の窓口あり、ボランティアとして登録。
ボランティア活動は始まったばかりで、大混乱している。
芦屋市内の避難所はわかっているだけで63ヶ所。
そこには救援物資が届けられているようだが、片寄っている様子。
1時間ほどウロウロして、ようやく手分けして各避難所に何が不足しているのか確認に出かける。小学校、中学校に出向く。
どこでも校長先生クラスが対応してくれる。
おにぎりのあまっているところもある。
ボランティアには慣れていない人が集まっているので、進め方について意見がかみ合わない。どれだけ活動できるかわからないので黙っていると、そのうち中心的な人物が出てくる。
市役所内は物資は非常に豊富である。しかし、市内避難所では不足している。
何がどこで必要かを把握できない。
そこでボランティアが威力を発揮するのかなと思う。
ただし、市の頭の硬い役人との折衝が一大事である。
【1995年1月22日】
ボランティア2日目。
何となく違和感は感じるが、元気一杯の若者2人と避難所となっている小学校や体育館などをまわる。
帰ってきて弁当を食べた後、女性用下着を百数十枚持って山の手の方に行って欲しいということで朝日ヶ丘集会所と朝日ヶ丘幼稚園へ。
朝日ヶ丘幼稚園で娘の幼稚園時代の先生(男性)に会った。
このあたりのことは断片的に覚えています。
確か北陸から来てくれた高校生くらいの男女を連れて水を避難所に運んだり、自転車に乗って御用聞きをしたりしていました。
上に書いている朝日ヶ丘は芦屋市役所からみるとかなり標高差のあるところで、自転車で行ったのですが、かなりきつかったように思います。
2日目に入ると市役所の救援物資をさばく係と配送係に分かれてきていて、組織化が進んできていました。
結局、自分の生活がありますので、ボランティア活動は2日で終わったと思います。
自転車が重宝していましたが、ボランティア2日目に道路の裂け目の上を通ってしまい、あえなくパンク。
そろそろ会社に行かなくては・・・という時期にさしかかってきた頃です。
【1995年1月23日】
バスで甲子園口まで出て、大阪に出る。
ニュージャパン(サウナかな?)で垢すりをしてもらう。
ものすごい垢の量だ。
コインランドリーで洗たく。
翌日にもう少し詳しい記載があります。
しかし、たかが1週間お風呂に入らず、シャワーも浴びなかっただけでものすごい垢が出てくるとは思えないですね。垢すりをしてもらうと普通にしていても結構出てくるのかも知れないですね。
翌日の分にも書いていないのですが、ニュージャパンで体を洗いながら横にいたおっちゃんと話をしていると、そのおっちゃんはトラックの運転手らしいのですが、顔が痣だらけだったのを覚えています。確か事故にあったというような話をされていたと思います。
トラックの運転手で思い出すのは、倒壊した阪神高速でまさにトラックの後ろ半分が倒壊を免れた部分にかろうじて残っていたことですね。
本当は23日に大阪に行ったのだ思いますが・・・
【1995年1月24日】
久しぶりに体を洗う。
風呂の汲みおきがとうとう尽きたので、朝から海技大学に給水に。
その前にクラックを避けながら、何とか車を出してガソリン補給。
バッテリーも問題ない。並ばずに給油できた。
帰ってみると人だかりがしているので覗いてみると、どうも建築の専門家が講釈している様子。一部の階段の内側の鉄骨にひび割れあり。
別の棟では完全に破断している模様。
給水後、歩いて国道2号線まで行き、バスに乗って甲子園口へ。
171号線との分岐まではものすごい渋滞。
梅田に出て、ギョウザを食べ、ニュージャパンでホッと一息。
この際だから垢すりをしてもらったら面白いほどよく取れた。
洗濯物をかかえていたので、その後コインランドリーを探してウロウロ。
阪急東通り商店街の脇道で1軒発見。1時間かけて洗濯する。
帰りは阪神で甲子園まできて甲子園から歩く。結局1時間かかった。
明日からいよいよ会社へ。
神戸の街もようやく灯りが戻った。
エレベータが3基動いた。
結局1週間ほど休んだんですね。
翌日から通勤地獄が始まります。