1995年1月20日に書いたものです。
3日目
給水事情がかなり良くなった。朝からアイスボックスに3杯かつぎ上げる。
243段。足にみがはいってくる。(電気は復旧していましたがエレベータはまだ)
(近所の)KさんやSさんは海技大学へ、Hさんは親類に昨日から避難しており、(家内と娘
も)和歌山に避難するという話が出始めた。
上司から20日、21日とできるだけ出勤することという通達が出たとのこと。
芦屋では出勤などとても考えられぬが・・・
一応グループ員全員と連絡がつく。Uさん、Fさん、Oさんは何とか出てくれる。
Sさんも板宿まで行ってみるとか。
神戸の地下鉄は西神から板宿までは通じている。
しかし、JR神戸線は、西明石~甲子園口不通。
阪神は甲子園以西、阪急は西宮北口以西不通。
自転車では2時間はかかるだろう。
ここから出勤するとすれば大阪支社か?
家の中はかなり片付いてきた。
TVゲームを復旧したので、娘はゲームで暇をつぶす。
友人関係では、K、Mの無事が確認されているので、N(千葉在住)に連絡した。
Nの実家も無事とのこと。ただし、Nの奥さんの実家は傾いている由。SにもTelした。
一応、家内と娘は明日返すことにする。夜は2つのベッドで3人で寝る。
娘は眠っているにもかかわらず、背中とかさわりにくるので安眠できぬ。
死者の数は増え続けるが、交通事情は一向に良くならぬし、電気、ガス、水はなかなか
回復しない。浴槽の水も段々減ってきた。
このような生活がこれから先どれだけ続くのか?
しかし、芦屋はまだ良い方で、被災地の東端に位置するため、緊急物資の供給がまずま
ずである。
長田や兵庫の映像を見るとまるで戦後のような様子で、一面焼け野原である。