謝ること、詫びることをしっかり教える必要性を感じる昨今 | とみもと 卓 オフィシャルブログ「杉並区政最前線 日々雑感」Powered by Ameba

謝ること、詫びることをしっかり教える必要性を感じる昨今

こんばんわ とみもと 卓です。

今日も朝から 一日予算特別委員会。

その後 理事会の座長を務め 今 少し落ち着きました。


さて 佐村河内氏が記者会見しました。

結局 障害者認定も取り消されたようですね。

週刊誌でのスクープ以降 マスコミの報道を見ていると

地元でも?の声はあったようで 逆に考えると

よく これまで ばれなかったとも感じました。


彼は一部 報道と事実は違うという事を言っているようですが

今更 その点を強弁することにどれだけの意味があるのでしょうか。 


また 柏市では残虐で身勝手な事件の犯人が逮捕されました。

改めて 被害に遭われた方々にお悔やみとお見舞いを

申し上げます。

しかし あのような形で事件に巻き込まれたら溜まったものでは

ありません。


私の母校である大阪教育大学付属池田小学校でも

凶悪で身勝手な事件がありました。


また 少し前には秋葉原でも通り魔殺人事件がありました。


この手の事件に共通する要素として

犯罪行為そのものは認めても 被害者に対して「謝罪」をしないと

いうことがあるように思えます。


私は心理学等の専門家ではありませんが

しっかり 謝れないということは 自己中心的という捉え方が出来るのでは

ないかと思います。


自分を客観的に見るという事が出来ないという事ではないでしょうか。

「社会が悪い。」「制度が悪い。」「○○が悪い。」などと全て他の人やモノに

理由を押し付けて 自己正当化する。

で その自己正当化の為には 何をやっても良い。といった感を受けます。


私は 昨日も延べましたが 最近の社会風潮として

「自分の木ばかり見て 森を見ない」社会になってきている、その事には

強い危機感を感じていると思っていますが


その悪い究極の形が全く身勝手な犯罪行為として表れているのでは

ないかと思います。


ある本で 大人になるということは自分の限界を知る事だと書かれていました。

例えば 小さい頃は 多くの野球少年が 将来の夢として

「イチロー選手の様になりたい」とか「プロ野球選手になりたい」と書きます。

しかし 現実はそう甘いものではありません。


己の限界を知るという事はすなわち自分を社会の中で客観視できるというだと

思います。


しかし 自分を客観視しろと言っても中々難しいものがあると思います。

しかし 何が悪い 何が間違っている そうでなるならば 謝る、詫びる。

それをわからせることは出来るのではないかと思います。

しっかり 理解させて上で 「謝ること」「詫びること」の大切さをもっと

教えるべきではないのかと思います。


まぁ 私の私見であり 反論もあるかもしれませんが

私自身は そんなことを思う今日この頃です。