さっき、母が電話してきた。
内容は、大したことなかったけど。
結局、1時間と17分、話すハメになった。
母はしっかりしているし、頭の回転も早い。
また、暗記力がまた、ちょっとレベチで、
私なんかよりよっぽど、覚えているから、
曖昧な答えはできない。
だから、すぐ痛いとこ突かれて、
ギョッとすることも一度や二度ではなくて。
本当に、それはたいそういいことで、有り難いことではあるのだが、私がいつも、ドン引きするのは…
「認知症の人のことを、努力が足りない」と、決めてかかるということ。
いつも、母は…
「認知症の人は、努力していないから認知症になるのだ」と、どうしても、言い張る。
努力が足りないって?
そんなの、
努力していても
なるんだよ。
母は、何でも自分でしたいタイプだし、誰よりもきちんとしていたいとか、綺麗に見られたいとか、美味しいものを食べたいとか、そういう欲求もある。
だから、出かける時も、これとこれと着ていこうとか、いつも気にしているし、カバンはこれこれに入れて、髪もピン留めをつけて、整えて出てくる。
お部屋や、廊下を歩くことは欠かせないし、ベットで毎日の運動も欠かさない。
努力は認めますよ!
だけども、認知症の人は、特に運動もせず、自分に気を遣わず、努力もしないでやってきて…
その挙げ句、反応がなくて、言葉も発せずに、恍惚の人になるのだと、言いたいのだ。
でも、先日、読んだ本(ぼくはやっと認知症のことがわかった by長谷川和夫)には…
全く、そんなことは書いてなかったし、
認知症でも、感情もあるし、心もある。
粗末に扱われていることもわかるし、騙されていることも分かる。
もちろん、程度問題だけれども。
認知症だからと、特別視されることはものすごく不安なことだと、書いてあった。
確かに、認知症と診断されたからと言って、全て健常者と線引きするのは、おかしな話だよね。
さてさて…
皆さんは、「長谷川スケール」というものをご存知ですか?
認知症の検査をするときに、判断材料になる、テストのこと。
それが、長谷川スケール。
名前が付いていることから、分かるように、長谷川和夫さんという、お医者さんが中心に作ったもの。
その、長谷川和夫さんが…
認知症になって、書かれた本に出会いました。
その中には、認知症について、こう書かれていました。
それはこういうことなのです。
認知機能は脳表面にあって、親の躾や学校の教育、社会から受けた教育など長年にわたるインプットの集大成です。この「認知能」の下には、喜怒哀楽の感情脳があります。そして、その下には人間の核になる、その人らしさが詰まった脳があります。
アルツハイマーでは、一番上の「認知能」の機能が失われ、次に「感情脳」が壊れていくのです。
実のところ、私の夫のお義父さんも、認知症になり、家族のことも分からなくなって、この世を去ることに。
でも、認知症だから、と決めつけてしまうことは、危険なんだと感じたし、短い間でしたが、お話もたくさん出来た。お義父さんとの時間は、穏やかだったように思います。
もちろん、不安から看護師さんや介護士の方々には、迷惑をかけたことも多々ありましたが。
認知症の方も、認知症と認定されて、みな一瞬んでボケてしまう訳ではない。
私は、どうなってしまうのだろう。
この先、皆に迷惑をかけるのではと、当人は必死で戦っているのだと。
そんな風に、私自身は感じました。
本の中で、長谷川さんは…認知症を発症して、
こうも述べられていました。
「生きるということは、やはりたいへんです。
ときどき疲れて、もういいよ、もう十分だよと、ぼく自身もいいたくなります。
歩けない、歯が抜ける、思ったこともうまく伝えられないなど、たくさん不都合なことが起きますが、やはり、これじゃいかんと耐えて、自分を奮い立たせていまを生きる。それこそが、長生きをしている者の姿ではないかと思います。」
そして、最後に…
この言葉で、締めくくられていました。
「いま」という時間を大切に生きる。
そして、こうも記されていました。
「普通に暮らしていくことは、それ自体がじつは神様からいただいている特別のスピリットに満ちた宝物なのだ。このことを常に忘れずに、平和な暮らしに感謝しよう。」
きっと、私もいつか、そうなることは否めない。
母は、最後まで、そうならないかもしれません。
でも、老いるということは、母も私も平等にやってくる。
いまを大切に生きること。
当たり前だけれど、
大切に、大切に、大切にしたい言葉です。