様々な理由で、母になりたくてもなれなかった人を何人か知っている。

なんとかして母になるための様々な方法も、昔に比べて確立してきている現代だけど。

どうしても、いくらかけても、なれなかった人達のその心情を慮れば、絶対にこれだけはという禁句があることも分かってきていた。

だけど悲しいことに、昔から非常に周りには、誰かと誰かを比べたがる人が多くいた。

○○さんとこはもう何人も子どもがいるのに、○○さんとこは結婚して何年も経っているのにまだ一人も…等と言う。

もちろん、ご本人に面と向かってそんなことは言わないだろうし、悪気もないのだろうとは思う。

だけど陰でそういう風に言われてしまっていることは、知っていた。

子どもができるできないも、いつできるかといったことも、全ては天命だと思っている。

できないのであれば、それはそういう定めなだけであって、ご本人に咎があるわけでもない。

そして子どもができるできないに、良いも悪いもないと思っている。

もちろん望んで産まれてきたのであれば、内輪では思いっきり喜べばいいと思う。



前回書いた、少し昔の中国ドラマ「情深深雨濛濛」に、梦萍という登場人物がいる。

梦萍は作中のある事件がきっかけで、生涯子どもを産むことができない身体になってしまう。

だけどその出来事が自分を見つめ直すきっかけにもなり、物語の後半では、主人公達と戦災孤児と共に暮らす孤児院を作り、日々子ども達のお世話をすることに生きがいを感じるようになり。

そして「私が自分の子どもを産めない身体になったのは、より多くの子ども達の母親になるためだったのだわ!」と、主人公に笑顔で語り、頷く主人公。

これも天命なのかもしれない、と思った。

全く血の繋がりがなくても、何故か不思議と育ての親に子どもが似てくるという事例も聞いたことがあるけれど。

産み育てるというのは、自分の身体を介しても介さなくても、究極的には同じようなものなのかもしれないなと。

そもそも子どもというのは、元より自分の所有物ではなく、あくまでも神様からお預かりしている、一人前の人間になるまで責任をもって守り育てていく存在であり、この世に生を受けるために、自分の身体を提供しているだけ。

そして自分の身体を提供する以外にも、そのような役目は果たせるものなのだとも思う。

命をめぐる、光と影のような出来事を短時間で見せられて。

そんなようなことを、ふと考えてしまいました。

尊敬するさとうみつろうさんが作詞作曲された、サノバロック「starkids are ready」の

あの星が輝いている理由は
あの星も闇を抱いているから

というフレーズ。

闇がなければ星だって輝けませんね🌟

完全という概念は、不完全という概念があってこそ成り立つもの。

好きという概念は、嫌いという概念があってこそ成り立つもの。

醜があるから美を認識できる。

不幸と思われる事象があるから、幸を体感できる。

二つで一つ、コインの表と裏。

切って切り離せない存在。

表が優れていて、裏が劣っているというものでもない。

表は表、裏は裏、それだけであって、それ以上の意味はないのかもしれない。

だから何を選んでも、きっと大丈夫です。

不完全(と思っているだけの)且つ、かわいい存在であるアナタは、今日も愛されている。

そう思います。