12月2日(土) JR山陽本線の柳井駅に8:53集合。
今回は参加費者が多く16人位集まりました。
岸田事務局長さんからの挨拶とコース説明の後、駅前バス停から9:00のバスで平生町へ移動します。
田名バス停に9:22に到着、ここから神花山(じんかやま)古墳へ行きます。
神花山古墳は田布施川河口に面した、標高39mの神花山の頂上部に築かれた前方後円墳です。昭和19年頃、旧海軍の高射砲陣地構築の際に発見されたもので、後円部のほぼ中央にある石の棺の中からほぼ全身の人骨が発見されました。終戦後、駐留軍が古代人の標本として持ち帰ろうとしましたが、地元の人々の強い願いで頭骨が残された、古墳に建てられた祠の中に大切に祀られていました。
古墳は南側が土砂の採取により損壊を受けているものの、全長30.3m、後円部の径16.6m、高さ2.5m、前方部の幅9.6m、高さ1.75mの規模を持ち、墳丘は2段に築造されていました。また、古墳の全面は石で覆われ(葺石・ふきいし)、古墳の外周部と段のテラスには円筒埴輪が配されていたと思われます。築造された時期は、5世紀前半頃と思われます。
石の棺は、組合式箱式石棺と呼ばれる板石を、箱形に組み合わせて作った棺で、長さ1.75m、幅0.37m、深さ0.35mの規模を持っています。
人骨は、長く壮年の男性と鑑定されていましたが、昭和62年に長崎大学医学部の行った再鑑定により、20才前後の美貌の女性であることが判明しました。
前方後円墳は大和地方で発生し、後に大和政権との関係を深めた地方の豪族が、次々と築造した墓です。神花山古墳も、この地域に君臨した豪族が築造したものであり、発見された女性の人骨は、この豪族の若き女王(首長)であったと思われます。
この豪族は、当時旧熊毛郡や玖珂郡の一部に君臨した周防国造(すおうくにのみやっこ)と称する大豪族か、あるいはそれに関連の深い豪族であったとみられますが、いずれにしても、神花山古墳は周防地域の古代史を考える上で貴重な遺跡です。昭和57年に県史跡に指定されました。
神花山古墳を下りて、次に白鳥(しらとり)古墳へと歩いて行きます。
当初は古墳からすぐに、上関往還(上関〜光〜下松市花岡で山陽道へ)と入る予定でしたが、途中が崖崩れで通行止めとなったため、県道23号光上関線を歩きます。旧道は山の中を通っています。間口3尺と狭い道だったそうです。
県道の途中から田圃の間を抜けて、上関往還へと進みます。人家の間を進み、山の中を歩く。
峠を越えて下ると、また広い道へと出ます。更に下り県道へと出ました。
ここを横断して佐賀地区へと進み、集落の間を抜けて行きます。
旧往還にある地蔵尊、昔、往還の崖から転落して亡くなった子供の霊を弔って作られたそうです。
ここから少し行くと白鳥神社に来ました。
実はこの神社は古墳の上に建てられいます。
白鳥古墳は古墳時代の中頃(5世紀)に造られたと考えられる県内最大の前方後円墳です。大星山(おおぼしやま)系から周防灘に向かって張り出した丘陵地に築かれています。
古墳の大きさは、長さ約120m、後円部径約64m、高さ約8m、前方部幅約62m、高さ約7.5m。墳丘は三段に築かれており、全面が葺石でおおわれていました。古墳の周囲には周濠がめぐっています。また円筒埴輪や形象埴輪などもたてられていたと思われます。
後円部墳丘には、白鳥神社が祀られており、寛政2年(1749)の社殿建築の際に「石櫃」(いしびつ)[箱式石棺]が見つかりました。中からニ神ニ獣鏡1面、四神四獣鏡1面、管玉11個、巴形銅器5個、鉄斧(てっぷ)5個、鉄刀3片などの副葬品が出土しました。これらの出土品は、昭和56年に県指定有形文化財になりました。
バスの待ち時間があるので、古墳を一周し、少し境内を散策した後、宮ノ下バス停へ移動。11:57のバスで柳井駅まで戻ります。
12:33に柳井駅に到着、柳井川河川公園へと歩きます。12:45〜13:15まで昼食休憩しました。
野外での昼食はちょっと寒かったです。
昼食後、茶臼山古墳へと向かいます。柳井川沿いに東へ行く、川沿いにある看板に茶臼山古墳のことが書かれています。
街中を通り、小瀬上関往還へと入ります。街中に真っ直ぐな道が700mあります。この左右30mが柳井津でここ以外は柳井村でした。
真っ直ぐな道を抜けた先に代田(しろた)八幡宮があります。ここの境内の片隅に茶臼山神社の祠があります。
明治26年(1893)に茶臼山古墳の調査後に、茶臼山の頂部に建立されました。平成5年(1993)に古墳の発掘整備に伴い、御神体や祠等を代田八幡宮に移されました。
ここから小瀬上関往還を進み、途中から茶臼山古墳へと上って行きます。
昔からある道を歩くと鳥居があります。ここを潜ると急な登り坂になりました。お年寄りが多いので登るのは大変でした。
参道の途中に祇園社があります。かなり古くからあったそうで、明治42年(1833)に代田八幡宮に合祀されましたが、昭和34年(1959)に茶臼山山頂付近に戻されました。
平成5年の古墳公園整備でこちらへ遷宮されました。
古墳の手前に田布施、平生、柳井の古墳の配置をしるしたパノラマがあり、古墳のことが陶板に記されています。
頂上まで来ると綺麗に整備された茶臼山古墳に到着です。古墳に登ると視界が開け、柳井から平生や田布施がよく見えます。
茶臼山古墳は周防灘を臨む標高80mの丘陵上にある。古墳時代前期末(4世紀末)に、地山を削り出して造られた前方後円墳である。
古墳の向きは南南西に面し、規模は全長90m、後円部径約57m、後円部推定高8m、前方部推定幅40m、くびれ部幅34mである。前方部二段後円部三段の築成で、東側くびれ部の後方に造出しをもつ。外部施設として葺石およひ゛埴輪を設置する。埴輪の種類は、円筒、朝顔形円筒、家形及び蓋(日傘)形の四種である。内部主体は後円部にあり、内法が長さ6m、幅約1.3mの竪穴式石室である。室内の床には粘土を貼り、その上に小円礫を撒く。壁は安山岩の偏平な割石を小口積みする。
副葬品として明治25年に銅鏡五面、銅鏃(どうぞく)、鉄剣、鉄刀、朱が発掘されている。更に平成4年の調査で鉄剣、鉄刀、刀子、ヒスイ製勾玉、碧玉製管玉、銅鏡片を得た。
出土鏡のうち直径44.8㎝、重さ8.950kgの単頭双胴鏡怪獣鏡(国立博物館蔵)は、古墳時代の鏡しては日本一の大きさで、この古墳を全国的に有名にした。
茶臼山古墳資料館にある物は精巧に出来たレプリカです。銅鏡五面発掘されていますが、一鏡だけ行方不明になっているそうです。
最後に資料館の屋上から古墳を撮影しました。
資料館から駐車場へと下りると漢字ばかりの碑があります。
明治の発掘のことが書いてあるそうです。
駐車場から下り、大屋東バス停から15:38のバスで柳井駅へ。
15:47に柳井駅に到着。途中で帰ららた方もいらっしゃいましたが、無事一日を終えることが出来ました。お疲れ様でした。