頭に言葉が溢れていたので
喫茶店で
カフェオレを飲んで
相棒のノートにいろいろ書いてきました。

ブログにはブログの良さがあり、
ノートにはノートの良さがあります。

動きでも音でも言葉でも
出すことって大事だな。



・「幸せになるために○○する」
「○○すると幸せになる」
みたいな事に
疲れたよ…ハァ(´-ω-`)

Facebookを見ていると
ポジティブな言葉で
悪酔いしそう。

言葉をいじくりまわして
イメージに惑わされて
訳分かんなくなってないか?

これ、
今の自分へのメッセージ。

誰もあなたを責めていません。
強制していませんよ。


・名言や歌詞に励まされたり
筆文字や言葉のセラピーが好きな人が
かなり身近にいる。

だから
大きな声では
言わないけれど。

その人の好みは、それでいいんだ。
人それぞれだから。

堂々とFacebookでシェアできて
羨ましいんだよなー。

なんでいわゆるネガティブを
投稿しないの?

哀れまれるから。
そして
別にネガティブだけじゃないのに
ネガティブのイメージができるから
面倒くさい。

本当は
命のはたらきに
ネガティブもポジティブも
ないだろう。

単純に
今の私の好みやコンディションによる。

一時ポジティブに偏り過ぎた
反動でもあるだろう。

…と、
ここまで前置きしないと
いわゆるネガティブを出せないぐらい
ポジティブの脅迫観念は根深い。



・「感動した!」「変わった!」
って、
楽しそうで羨ましいんだけどね。

なんか疲れちゃう。

ぼんやりしていたい。


・不幸は好きじゃないけど
幸せじゃなくても構わない。

でもね
面白いのが断然いい!

定義の違いかも知れないし
今の気分かも知れないけど。

「幸せな人生」ではないけど
「面白い人生」なら
今ここで既にそうだ。

満足。これでよし。


・仕事で嫌なことがあったとき
人に話すと
「でもさー、○○だよね」とか
「俺は○○(ポジティブにやってる)」とか

そういう反応がわりと多くて
ますます疲れる。

苦労をしたからといって
ジャッジせずに聴いたり
共感する姿勢でいられるとは限らない。

逆もまた然り?

人間性だけではなく
センスや技術みたいな部分が
大きいのかもしれない。



・「うちの家系は自死がいない」と
誇らしげに話す人がいる。

私が間接的な自死遺族だから
気を抜いたんだろうな。

そういう発想が
自死遺族を追い詰めるんだよ。

自死ではなくても
他のかたちで人を苦しめる
温床なんだよ。

そして
その人自身の首を絞めていることに
気付いていない。


・自分を大切にする
ということが難しい。

やってもやっても
元に戻る。

一つを立てれば
一方が引っ込む。

多くの人が
維持するだけでも
精一杯なのに

心身のエネルギーが高くない状態で
上がっていくには
ラクをしていられないでしょう。

心地よい方を選び続けることに
かなり労力がいる
…って何なんだろうね(笑)

それでもめげずに
やるのは何故?

別の風景が
見てみたいという
好奇心かな。

あとは
なんかこれ違う
って感じ。


・ラクであるからといって
楽しい訳ではない。

いわゆる幸せな人生に矯正したら
面白い訳でもない。


私の「面白い」「幸せ」のイメージって
何だろう?