突然猫がやってきた!
ケージから出てきた猫が
見慣れたこの部屋でウロウロしていることは
とても不思議でした、、
あの感覚は今でも覚えています、、
書くことがだいすきなわたし、
ひらがなもだいすき!
どんなふうにかいても
ひらがなはやさしいから、、





どなたかの暇つぶしになれば
嬉しく思います(*´-`)





☆☆▽☆▽▽▽☆▽▽☆☆▽▽☆☆☆☆
猫と 散歩と 少しのパンさえあれば
わたしは 生きていける。
☆☆▽☆▽▽▽☆▽▽☆☆▽▽☆☆☆☆


ドドン は最初の頃はドーン と呼んでいた。

その日は春浅く、桜の木はどれもまだ
ふんわりとした蕾ばかりだった。

昨日会社帰りに買ったフォカッチャと
明らかに牛乳の多いカフェ・オ・レで
朝食を済ませると、陽の光に誘われ、
コートを持たずにランニングシューズを履き
縮こまった背中を伸ばしたくて散歩に出た。

今朝は携帯の振動音で目を覚ました途端
突然、出社したくないという感覚に襲われ
わたしは素直にそれに従った。

仮病のメールを送ると
ぬるい布団に包まれてうとうとし始め、
オフィスで特に何かあった訳でもなく、
抱えてる案件にも問題は今のところない、、
つまり休みどきだ、そんな正当性を拾うと
安心して思考を川に流した。

通勤時間帯から3時間以上経っているせいか
鳥の声がたまにきこえてくるだけで
この住宅街には、
実は人なんて住んでいないのではないかと
思う程の静けさだった。

以前観たホラー映画、人間の
いなくなった都市のワンシーンを思い出す。

ジーンズにセーターだけでも
風がないせいか寒くない。

明るさと暖かさを感じ取りながら歩いていると、
自分の歩く速度に合わせて
景色が動いているような不思議な現象に酔う。

右前方の角にある住宅のミモザの黄色に
目を奪われたわたしは自然と歩みを緩めた。

その途端、空からドーンと落ちてきた。

正しく言うと、ドーンと何かが
どこか上の方から落ちてきて
わたしの頭に乗っかった。

その当時のわたしはグリングリンの
パーマをかけたアフロヘアーで
ブロッコリー姉ちゃんだった。

ドドンは、グリングリンパーマの
わたしの髪の毛に爪が引っかかりまくり、
下へ落ちることなく命拾いをした。

わたしは何かが頭の上に落ちてきたのには
気がついた、、
が、まさか猫だとは夢にも思わず、

だから猫だと確認するより前に
とてもとても、か細い声で
ミャ~ 
と鳴いたのを聞いて
たちの悪いイタズラか冗談かと思った。

晴天の霹靂では雷だが、
わたしの場合は仔猫ちゃんだったのだ。

ドドンは今でこそ、この図体だが
その当時はちいちゃな仔猫ちゃんで、
体はもちろん、眼も鼻も口も耳も、
尻尾だってちんまりとしていた。

仔猫ちゃんは逃げることもなく、というより
わたしの髪の毛から逃れられず
宙ぶらりんとなり、
わたしのおでこには仔猫ちゃんの足が
ぷにゃぷにゃと当たっている。

驚きをひとまずしまい込んだわたしは
とてもとてもやさしく
仔猫をグリングリンから救い出してあげた。

なぜ落ちてきたのか、
どこから落ちてきたのか
上を見上げても青い空に電線が見えるだけで
横のブロック塀や近くの住宅からとは
考えにくい状況だった。

しばし仔猫ちゃんを胸に抱いたまま
その場に立ちすくんでいたのだが
人っ子ひとり通らない。

このままではどうすることもできないし、
気もちも落ち着かない。

仔猫ちゃんをそっとそっと胸に抱いたまま
空から落ちてきた手がかりが
つかめないものかと、
そのあたりを小一時間もフラフラ探し回る。

それなのに
時たますれ違う人の誰ひとりとして
仔猫ちゃんとわたしを
気に留める人はいなく、
どの家からも仔猫ちゃんを捜す声が
聞こえてこくることはなかった。

遠慮がちではあるがしっかり泣く仔猫ちゃんを
胸に抱いたまま、仕方なくわたしは帰宅した。

それが今じゃ どうだ、、、


おいおい、この部屋のご主人様は
いつのまにわたしではなく
ドドンになったのだい?、、、

もちろん、わたしにしたらドドンと暮らせて
恐悦至極に存じます。


**



わたしは中古マンションに住んでいる。
賃貸物件だ。

全く洒落ていない外観に
まるで裏口ようなエントランス、
誰かが座っているのを見たことのない
ムダに華奢な白いイスが、
狭いエントランスの壁に沿って、
あろうことか三脚も置いてある。

おかげで遅刻気味の朝は
階段を駆け降りた途端
クイっと体を曲げて方向転換をして
エントランスに入っていくのだが、
そこには椅子があるわけで、
イスを倒さないように
とても神経を使わなくてはいけない。

ここでも
方向転換を余儀なくされるわたしは
再びクイっと体を曲げると同時に
外へ走り抜ける。

古い映画グリースのジョントラボルタが
手を下ろして腰を曲げたままのシルエットに
なっているはずだ。

駅から遠く、地味より地味で
誰も座らないイスで入居者をこまらせる、
そんなマンションではあるが
管理人がいるので
女一人暮らしには、まあ まあ まあ、、、

エレベーターはあるが
わたしの部屋は「今は」2階なので
基本的に階段しか使わない。

玄関を開けると一直線にのびた廊下の先に
ガラスのはめ込んだドアがあり、
入ると左に猫の額より小さな
カウンターキッチンがあり、
カウンターの前はリビングとなっている。

横には四畳半の部屋が2部屋あり
そのうちの片方の部屋には出窓があって、
そこからは下を歩く人や車が実によく見える。

なかなか十分な広さで
しかもわたしは同じタイプの他の部屋より
安い賃貸料で暮らしている。

以前はこのマンションの違う階に住んでいて
そこはワンルームの間取りだったのだが、
ある日突然、
上階からの水漏れ事故があり
キッチンやリビングが結構な被害にあった。

だがその時わたしはまさに、
はやりの断捨離を
始めようとしていたところだった。

服や雑貨、テレビやたくさんの本、
家電の一部が、天井から落ちてきた水で
ダメになってしまった、、
が、実はわたしは気にしていなかった。

いつまでたっても断捨離をしないわたしに
掃除の神様が
喝をいれてくださったのに違いなく、
そのため不動産やとの電話で

「気にしてません」
「だいじょうぶです」
と、正直にわたしは話した。

翌日は土曜日だったこともあり
朝から片付けに追われていると
ピンポンが鳴り、
不動産やとオーナーが
お菓子を持って立っていた。

あまりにもだらしない部屋を
見せたくはなかったが、
そこは仕方がない。

あろうことか写真まで撮られてしまい、
水漏れなんかよりも
散らかったまま部屋を使っていたことに
恥ずかしさを覚えたわたしは、
より一層力強く、
額に青シワを寄せて
「だいじょうぶです」を連発したのだった。

ふざけた散らかり方のキッチンで
何年かぶりに
来客用の食器に紅茶を入れている間、
不動産やとオーナーはヒソヒソ話をしていたが
結局この部屋を修理するので
部屋を移ってくださいと言われてしまった。

三万光年ほどのめんどくささと、
高い家賃の部屋に行きたくなかったので

「このお部屋を気に入っているので
 ここでだいじょうぶです、、
 テレビだけ保証していただければ
 特に他はだいじょうぶですけど、、」

どうやらわたしの言葉は
オーナーを勘違いさせてしまったらしく、
今どきこんなになってしまったのに
クレームを一つも言わないなんて!

と、細い眼を限界まで見開いて驚かれてしまい

「実は今、ちょうど二階のお部屋の方が
 退去の引っ越しの最中なんです」
 
「?」

「すぐに清掃業者に連絡とって、
 なるべく早く部屋の掃除を
 やってもらいますから、、」

「、?、、」

「いかがでしょう、そちらのお部屋に
 移っていただくのは、、」

「、、、」

「あっ、もちろんお家賃はそのまま、
 ということで、、」

かくしてわたしは、
ワンルームの家賃のまま
2LDKに暮らすこととなった。




**


鍵を開けて
「ただいまー」
と、言いながら玄関に入ると
待っていましたと言わんばかりに
ズン ズン ズン と、
ドドンがやって来る、、、

そういうことは
まず、ない、、、、、

SNSでよく見るほかの猫のように
窓辺で、飼い主、いや、同居人を
愛らしく待つ猫の姿はウチにはない、、、

重たい猫の砂やごはん、おもちゃ、時には
自分には絶対買わない金額を
惜しげもなく出して買ってきた
猫さま御用達グッズを
持って帰ったとしてもだ。

「いるかなー、、」
「いてくれるかなー、、」

などと淡い期待を持っていたのは
ドドンが仔猫ちゃんでいた最初のうちだけで、
ズン ズン ズンと歩くようになる頃には
これっぽっちも考えなくなった。

一緒に暮らしてくれるだけでも
ありがたいのに、
そういった願いを持つのは
欲張りだと気づいたのだ。

そんなわたしの
人生最大の謙虚な価値観を
知ってか知らずかドドンはきょうも自由だ。

ただ、たまーに、、、
そう、本当にたまーにだが、
ドドンが気まぐれを起こすことがある。

わたしにとってはまるで
パチンコの大当たりが出たような時が
やってくるのだ。

普通、ペットと一緒に暮らしていると
オキシトシンが分泌されると思うのだが
わたしの場合、ピュンピュンと
ドーパミンが分泌される時がある。

それはたまーに、わたしの帰宅時の現象だ。

基本的にわたしはドドンがきてからは
全ての部屋を自由に行き来してもらえるように
リビングのドア、出窓のある四畳半のドア、
和室の四畳半のふすまを
みんな開けたままで生活をしている。
話をもどすと、、

帰宅して靴を脱ぐとリビングから
ズンズンズンと、
なんとドドンがやってきた!

お腹が空いているのだろうか、、

狭い廊下を歩き出す私の足めがけて
ニャーニャーと声をかけてくれながら
まとわりついてきてくれるのだ。

だだ、最初のスリスリは
アメフトのタックルに似た衝撃に近い。

ドドンにしたら
そんにつもりはないのだろうが、なにしろ
たまーに、なので、わたしの方もすっかり
どんなものか忘れている。

毎回「うっ、、」「ガッ、、」などと
よろっとするのをふんばりながら
ドドンの洗礼を受ける。

なぜか両手が重い荷物やスーパーの買い物で
ふさがっている時に限ってやってくるのは
気のせいだろうか、、

まあ、どんな時であれ
わたしにとっては嬉しい限りだ。

心の中で
「うおぉぉぉ!」と、叫びながら
実はここからキッチンまでの
わたしの試練の数秒間が始まる。

念のためもう一度いうが、
自分めがけてドドンがやってくるのは
わたしにとって
喜び以外の何ものでもない。

ただドドンはわかってないのだ。

そう、ドドンは自分の体の大きさと重さを
自覚していないらしい。

とにかく手加減なく、容赦なく
まるでわたしの足にぶつかるように
すり寄ってくるので
わたしはあやうく転びそうになる。

ここでも念のため言っておくが
わたしはなにも転ぶのを
嫌がったり、心配しているのではない。

なんなら、
買ってきた玉子が割れたとしても
コンビニのホカホカでふわふわの肉まんが
ペチャリンコとつぶれたとしても、わたしが
イヤな気分になることなんてないだろう。

いや、実際、ならなかったのだ、、、
それどころかまとわりつきたいんだねと
一人悦に入るってもんだ。

わたしが恐れているのは、
ドドンを踏んでしまい
(まあ、そんなことはないと思うのだが、
 なにしろ、踏むにしちゃあ
 大層ご立派なお体なのだから、、)

はたまた、蹴飛ばしでもしてしまい
痛い思いや、怪我をさせたくないのだ。

そんなわけで当然というか
仕方なくというか、
仕事や通勤で疲れ切った自分の足にムチ打ち
古いゴムのようにダラリと
伸びきってしまっている神経を
無理やり奮い立たせ、 
両手に持っている物を落とさないように
わたしは細心の注意をはらいながら
リビングまで歩く。

本来ならニンマリ、ホクッとするところだが
その時のわたしの顔はややもすると
歯を食いしばりまっすぐ前だけを見る、、
そう、例えるなら

一輪車に初めて乗れた鬼のような
形相になっているのかもしれない、、

嬉しくてはしゃぎたいのに
転ぶのは避けたいと、、、





**



間違いなくこの建物の中では

わたしが最低年収者だろう。

なぜそう思うのかというと
服装に靴、持ち物だ。

わたしはヒールを履かないので
まあ、そのような服装で、おまけに
オフィス勤めではあるがナップザックときた。

マンション内で住人とすれ違うときに
軽く頭を下げてご挨拶をする際、
わたしは今まで一度も

「この人、わたしより生活が大変そう」

らしき人に、お会いしたことがない。

そんなわたしだが
一人暮らしにもかかわらず
ひょんなことから2LDKに住んでいる。

それはまるでドドンとキキ様の為に
なるべくしてなったような、
他力だけの断捨離、部屋の移動、であった。

(他力→仏教において自己以外の力、特に阿弥陀仏が人々を救済しようとする本願の力を指す言葉で、他人任せという意味ではありません)

結局、あの水漏れのおかげで
わたしの所有物はことごとく
サヨナー、となり、
断捨離どころか
部屋を移動した当時は
リビングに弁償していただいた大型テレビが
あるくらいで、
あとはパラパラと豆まきの豆のように
少しの服が床に落ちているだけであった。

それ以外のものは全て
和室の押し入れの上段だけに収まっていたが、
それでも生活できることをわたしは学んだ。

最初はリビングにご立派なテレビを置き
無事だったマットレスだけを敷いて
気分だけは優雅に寝ていた。

だが妙に落ち着かない、
夜中に目が覚めてしまうのだ。

たぶん広すぎるからだろうと思い
試しに和室の四畳半で寝てみたところ
いつもの眠りに戻った気がした。

これが現在のリビングが、ドドンと
キキ様専用の部屋となった所以である。

と言っても、どの部屋も事実上
ドドンとキキ様のお宅ではあるのだが、、

テレビを和室四畳半に移動したのは
わたしが寝ながらテレビを観る為に、
ではなく、
ドドンとキキ様には必要ないからだ。

そして
リビングのキャットタワーや
隠れハウスでくつろいでいる姿、
おいかけっこや
稀におもちゃで遊んでくれている
ドドンとキキ様をリビングで見れる訳だから
当然、和室に置いてあるテレビには
ホコリが積り始めていった。

わたしの
ドドンとキキ様への愛が積もるように
拭いても拭いてもすぐ積もり、
拭かなければ
それは驚くほどの積もり方だった。





**



朝、目覚めて 
ドドンとキキ様がいるしあわせ。 

わたしにとってしあわせという言葉は
ドドンとキキ様の為にこそある。

自分がなんの為に生まれてきたとか
なんの為に生きているとか
そんなことはどうでもよくなって久しい。

負けず嫌いのわたしが
ドドンとキキ様に負ける喜びに浸り
何度心のなかで嬉し涙を流したことか。

いつも思っていたことがある。
いつも心掛けていたことがある。

知らないで、出会えないで人生を終えたら
後悔するに違いない心を震わす曲、
高みへ導いてくれる本、
瞬きを忘れてしまう風景、
いつまでも食べ続けたいパン、、

それらに出会うことはできるのだろうかと、、

だが、ドドンとキキ様に出会えて
それら全てが
わたしの人生の中から消え去った。

なんてちっぽけなわたしだったのだろう。

わたしはわたしのことしか考えないで
生きてこられていたのだ。

誰かほかの人と比較をするのではなく、
記憶の中の昔のわたしと比べて、
わたしは今、圧倒的に強く、
思慮深くそして慈愛に満ちている。

地球も月も、太陽すら永遠ではないのだから
きょう、この瞬間のドドンとキキ様との時間に
有頂天になるのは至極当然だ。

それは宇宙の歴史からしたら
ほんの一瞬の輝きにも満たない
哀しいほどわずかな
時のかけらにすぎなく、、、




**


動物は嘘をつかない。

人間だけが嘘をつく。


もしドドンとキキ様が嘘をつくとしたならば

わたしはその瞬間から

生きていくことが地獄となっていく。


それは

自分が愛する人(猫)に

嘘をつかれたということなのではない。


わたしが愛する人(猫)に

嘘をつかせてしまったという

自信喪失による自己嫌悪感以外

何ものでもないからだ。


わたしは表立って言ったことはないが

なぜかウソを見破る能力が高い、、

と、自負している。


そう、つまり

「人が良い」の反対でしかない。


そのため、

人一倍ウソをつかれて生きてきたと

思い込んでしまっている部分もある。


人はたいてい何気ないウソをつくものだ。


思いやりやいたわり、愛のあるウソは

贈り物なので、ありがたく受け取れるが

それ以外だと

そのウソが大きくても小さくても、

そして笑いを誘うようなウソでも


「やっぱり」ウソだったとわかってしまうと

当たり前だがいいキモチはしないし

時には傷つき、落ち込むこともあり、

やっかいなのはウソをついた相手や、まわりに

そんな自分を見せないようにすることだ。


顔で笑って心で泣く、という

まさにそんな場面が立て続けに起きたりすると

やけのやんぱちとなり、


わたしはアルコールを飲めない体質なので、

ドカ食いや

後にガラクタ化してしまうであろう雑貨、

今必要のないものなど少額ではあるが

やたらと多く買ってしまうしかなかった。


そう、SDGs  に逆行するので

とても良くないことだった。


お叱りを受けるかもしれないが

政治や芸能のつくウソなんて

わたしからすれば、、だが

大して気にならないことの方が多い気がする。


直接ウソという矢が

わたしに刺さるわけではないので

気にも止めずに生活できてしまうのだ。


その証拠に、去年どころか

先月の政治や芸能の話なんて

大ニュースでもなければ、いやそれさえも

思い出すこともなく生活できている。


だが友人や同僚となると

それは実に生々しくわたしに関わってくる。


なぜなら彼らは

わたしの眼の前に存在していて

わたしと対面しながら話すからだ。


相手は

うまくウソをついているつもりなのかも

しれないが、悲しいかな、

わたしにはウソだとわかってしまうことが

多すぎた。


わたしは

話をおもしろくするための誇張すら

ウソをつかれるのは悲しい。


なぜなら、笑わせてくれるよりも 

わたしは信じさせたままにしてほしいからだ。


ウソの領域に入ってしまうほど誇張されると、

わたしはひねくれ者なので


「真実を話す相手」ではなく

「笑わせる相手」として


見られていることに

落ち込むのだ。


使い勝手の悪いわたしは

きっと人を信じる心が干からびて

カチカチに固まってしまっているのだろう。


我ながらなんとも痛々しい、、


嘘に騙されないコツがあるとすれば、

最初から信じないということかも知れない。


喜びは減るかもしれないが

傷つくことも明らかになくなるだろう。


そしていつの間にか

人に自分の感情を委ねることをやめていき、

では、

何に自分の感情を委ねればいいのだろうか。


わたしの感情を無防備に委ねられるものなど

果たしてみつかるのだろうか。


そんな中、突然贈り物が降ってきた。


以前は人と人の出会いは奇跡だと思っていた。


だが人は誰しも選択しながら生きている訳で、

それはつまり出会うべくして出会えたとも

言えなくはないだろうか。


それよりも、お互いに、もしくは

片方が選択できないのに出会えたとしたら

それは「もっと奇跡」だと

言えるのではないだろうか、、、


そう、

ドドンとわたし、

キキ様とわたしのことだ。


わたしは二つの「もっと奇跡」を

手に入れることができたのだ。


なぜなら彼らには

選択などできない生活しかなかったのだから。


彼らにとっては奇跡でも

わたしには選択権があった訳だからだ。



ドドンとキキ様のおかげで

やけのやんぱちになることも全くなくなり

SDGsに反することもなくなった。


それどころか

悲しみや憤りといった嫌な感情を

抱え込んだまま、

為す術もなく過ぎていく時の流れのなかで

苦しむこともない。 


だが世の中にはそれ以上の

「最上級の奇跡」と言うものが存在していた。


なぜなら、ドドンもキキ様も

お互いに自分で選択なんてできない保護を経て

出会えたのだから、、、


その意味では

ドドンとキキ様の出会い、

「最上級の奇跡」に

わたしは大いに嫉妬している。


これこそ正に大奇跡だと思うし

わたしが人間である以上

絶対にこの大奇跡は起きない。


餌が欲しくて媚びるのは嘘ではない。

エサを手に入れるための手段だからだ。


甘えたいのにツンツンするのも嘘ではない。

愛のトリックに決まっている。


ドドンとキキ様と一緒に居れさえすれば

そこには一ミリの嘘もなく、だから

私は無防備なわたしでいられる。


当然わたしの感情は

ドドンとキキ様に委ねられることとなる。


ドドンとキキ様の息遣いや臭い、

ご機嫌具合を胸深く吸い込みながら

わたしは何の疑いももたずに

時の流れとともにきょうも生きていける。



**



キキ様は
クレオパトラをイメージするような性格だが
れっきとした雑種だ。

わたしは、海外移住をすることになった友人の
ところからキキ様を貰い受けた、、
いや、違う、来ていただいた。

わたしが感心するのは雑種にもかかわらず、
それどころか元保護猫だったにもかかわらず
どこで身につけたのか凛とした立ち振る舞いだ。

もちろんわたしはクレオパトラに
会ったことはなく、歴史研究家でもないので
例え方が間違っているかもしれない。

それでもあえて言いたくなるほどの
クレオパトラのようなキキ様なのだ。

まず最初に驚いたのは
わたしを思い通りにさせてしまう眼力、
それはキキ様の魔力なのだろうか、、

キキ様に見つめられると、わたしはともすれば
漫画に描かれているあの眼つき、
魔法にかかってうっとりとした眼で彼女に従う。

そして感じるのだ、、喜びを、、、

とはいっても、
キキ様はうんともすんとも、そして
あまり、にゃーともおっしゃらないので
わたしはキキ様の表情、仕草、そして眼差しから
たぶんそうであろうことを推理して
正解に行き着くまで
あーだこーだとやり続けるしかなかった。

職場ではリップサービスだろうが、
サポートほしさだろうが
まあ、なんらかの理由がある時に、

「有能、頼りになる、最後の切り札」
などと言われ、こそばゆく感じながらも
当たり前だが悪い気はせず、
しゃかりき全力投球をしているわたしだが、
キキ様の場合はそんなものとは次元が違った。

キキ様のゴールのない日々の生活に
気がつくと全身全霊でお仕えしている
わたしがいるのだ。

全身全霊の意味を
わたしはこうやって身をもって理解した。

仕事ではなく、愛をもってして
このような素晴らしい体験ができるのは
恐悦至極でございます。

ドドンはというと、そんなわたしを
しっかりやれよ、とでもいうように
あくびをしながら、、、なのである。



②へ続きます


ここまでお読みいただきありがとうございます
ペコリ、おじぎです












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